change you, change me 1




 あ、いつもの人だ。


 ここ一ヶ月ほどでよく見掛けるようになった人が通り過ぎて行った。きっと最近引っ越してきた、ご近所さんだと思う。
 年齢は多分、三十代半ば。地味なスーツとネクタイ。シャツは必ず真っ白。ナチュラルにセットした、というよりも本当に無造作に寝癖を取っただけ、という短めのヘアスタイル。カラーリングとは無縁な自然な黒い髪。猫っ毛でもともと少し茶がかった髪色の俺とは違って、硬そうな直毛だ。典型的なサラリーマンと言えるだろう。

 毎朝、店の外に置いてあるプランターの花に水を遣るのが日課だ。女性客が多いからこういう雰囲気作りは大切にしている。1年前にオープンした美容室<me/tamoru(メ・タモル)>。オーナーは吉高友哉よしたかともや 、つまり俺だ。有り難いことに前に勤めていた店からのお客様の口コミも広まり始め、やっと軌道に乗ってきた俺の大事な店だ。

 背も高くてスタイルも良いのにもったいないよな。素材を活かせて無いんだよ。
 俺は駅の方向へ姿勢良く歩いていくその人の後ろ姿を見送りながら、そんな事を思っていた。
 あの髪質ならもっとサイドを刈り上げて、トップだけ長さを残して、前髪を立たせたらすっきり見えてぐっと男っぽくなる。いつもちらりと横顔を見るだけだが、顔立ちだって決して悪くない。少し吊り目気味の一重だが、細過ぎないし、唇の大きさもバランスが良い。すっと通った鼻梁は歌舞伎役者を思わせる。微妙な長さの髪で隠れてしまっているが、顎のラインも角張り過ぎず、でも確りとした骨格だと想像出来る。いつもきっちりと締められているネクタイの首元は喉仏がぐっと隆起していて、ストイックな感じがいい。

 ああ、もったいない。
 心の中でもう一度繰り返した。




 「いらっしゃいませ、沙夜子さん。」
カランカランと来客を知らせる音がして、笑顔と共にお迎えする。接客の第一は笑顔。インターン時代からの俺のモットーだ。
「今日はどうします?」
カット台の椅子に座った彼女は、オープン当初からの常連さんだ。近所に住んでいる彼女はアパレル関係の接客業をしている、いつもお洒落な女性だ。
「前回入れてもらった色がすごく好評だったのよ。だから、今日もカラーはそれで。長さはどうしようかしらね。」
「少し前髪作ってみますか?それだけでもかなりイメチェンになるし、髪色にも合いますよ。ほら、こんな感じで。」
コームで前髪を掬い、額に掛る長さまで持ち上げて、鏡越しに目線を合わせる。
「ぱっつんだと子供っぽくなり過ぎちゃうから、少しランダムに毛先を遊ばせて、サイドに流してもいいような自然な長さで。後ろは揃える程度にしておいた方がアップにする時、楽ですよ。これから暑くなりますしね。」
「そうね。そんな感じもいいかも。前髪作るのなんて久し振りだから、ちょっとドキドキしちゃう。」
茶目っ気たっぷりに沙夜子さんは答えた。笑顔がとってもチャーミングな人だ。
「じゃあ、まずカットからしていきますね。」
カット用のケープをバサリと一振り、俺もにっこりと笑顔を返した。


 今日も一日、頑張った。
最後のお客さんを送り出し、床を綺麗に掃除する。以前は店に通うのに電車で1時間近く掛っていたが、この店の物件を探すと同時に住居も探していて、運良く徒歩圏内に丁度良いマンションが見つかったのだ。そのおかげで遅くまで雑務も出来るし、お得意さんの時間外営業にも対応出来る。一人で切り盛りしていくにはある程度はそういう柔軟性も必要だと俺は思っている。お客さんあってこその商売だし、それに何より、俺はこの仕事が好きなのだ。
 街を歩いていても、擦れ違う人のスタイルをチェックしてしまう。毛先が傷んでるなあ、トリートメントをもっと確りやればいいのにとか、あのパーマはもっと太いロットでやった方が良くなるのにとか。これはもう職業病というやつで、もしこの人が俺のお客さんだったらこんなスタイルを提案して、カラーはこうして、と妄想が止まらない。そんな事して街中で急に立ち止まったりして人にぶつかられてしまうのなんか日常茶飯事だ。



 梅雨も明けて本格的な暑さが訪れた。連日の晴天続きで花が枯れないように水遣りは欠かせない。水をたっぷり入れたじょうろを慎重に傾ける。鮮やかな緑に降り注ぐ水滴がキラキラと朝日に反射して綺麗だ。暑いのは辛いけど、こういう瞬間は意外と好きだったりする。
 「あっちー。」
重いじょうろを持ち替えながら一人ごちる。目線を上げた先に見えたのは、例のサラリーマンだった。
 いつもながらに姿勢がいい。世間はクールビズだエコだと言われているけど、この猛暑でも相変わらずスーツにネクタイ姿だ。結構、お堅い会社に勤めているのかもしれない。
 サラリーマンは大変だ、なんて思いながら通り過ぎる彼をちらちらと横目で窺う。
「ちょ……ちょっと待って!くださいっ!!」
無我夢中で呼び止めた。日本語が少しおかしくなってしまったけれど、それどころじゃなかった。俺の叫びで立ち止まり、振り返ったその顔は不審に満ちていた。
「俺、そこの美容室やってる吉高っていいます。髪を切らせてもらえませんかっ!」
「………。」
返ってきたのは無言。それもそうだ。いきなりこんな事言われて、はいそうですか、と納得する人間などいる訳がない。
「その髪、自分で切りませんでしたか?俺、ちょっと気になって…。あの、お仕事から帰ってきてからでいいんで、ここに寄って下さい、それで俺に切らせて下さい、お願いします!」
俺の言葉を聞いて、その人はおもむろに襟足に手を伸ばした。そう、そこが不自然に真っ直ぐなのだ。俺はヒップポケットから名刺を一枚取り出して、彼の胸の前に差し出した。
「あやしい者じゃないんで。受け取って下さい、これ。」
「あ、ああ、どうも…。」
戸惑いを隠せない表情のまま、俺の勢いに押されたような形でその人は名刺を受取った。
「お仕事行く所でしたよね、呼び止めてすみませんでした。いってらっしゃい。」
「……行ってきます。」





 今朝貰った、というか半ば押し付けられた名刺を財布から取り出す。普段から少し遅めの昼食を取るようにしている俺は、ピークを過ぎた会社近くの馴染みの定食屋でなめこおろしそばを食べ終えた所だった。
 美容室me/tamoru、代表・吉高友哉。住所と電話番号、営業日と時間が書かれたシンプルなものだ。代表と書かれているのだから、彼が経営者なのだろう。俺よりも幾つか年下だと思われる彼が一国一城の主である事に素直に感心する。
 美容室など生まれてこのかた足を踏み入れた事がないので、美容師といえば、手先が器用でお洒落で、女性客とにこやかに話しながら髪を切る、という貧困なイメージしか持ち合せていない。

 大学卒業後、勤め始めてもうすぐ12年目。経理課で主任を務めるようになったのは5年前。今は各課の折衷役を担っていて、そこそこの評価をもらっている。可もなく不可も無く、取り柄は無遅刻、無断欠勤無し、多少の無理が利く丈夫な体。仕事は決して早いほうではないが、ミスの少ない堅実な仕事を心がけている。経理という仕事柄、そこまでの対人スキルを要求される事も無く、そこが俺としては助かっている。仕事の上での必要な会話は、順序立てて相手に伝えれば良く、またそれで分からない点を聞き出し、解決していけば良いのだから、俺にとっては明確で分かりやすい。
 しかし、互いの距離を縮める為のコミュニケーションである世間話というものが大の苦手だ。それこそ美容師のような接客業は、俺にはとうてい勤まらない。まず、会話の糸口が分からない。人付き合いが苦手な自分、とりわけ女性との接し方は難しい。真面目に考え過ぎだと言われるが、それならばどう考えれば良いのだ。
 冗談の通じない、飲みに誘うにはふさわしくない人間、つまりは仕事を抜きにはとかく親交を深めたいとは思わない、という総評を頂戴しているのが俺、保坂尚吾ほさかしょうごという人間だ。