change you, change me 2




 再び名刺に目を落とし、考える。彼の申し出を受けるべきか、無視するべきか。引っ越しをしてから毎日あの道を通っているが、帰宅時には既に暗くなっていたと記憶している。書かれている10時から20時までの営業時間からすれば、いつもの21時近い帰宅時間には既に閉店しているのだから、思い違いではないだろう。「仕事が終わってからでも」というような事を言っていたが、その為にわざわざ仕事を切り上げるのもおかしな気がする。確かに残業をせずに帰社すれば間に合う。間に合うのだが、気が乗らないというのが正直な気持ちだ。
 邪魔にならず、人に不快感を与えない最低限のものであれば良い。俺にとってヘアスタイルとはその程度のものであって、長いこと自分で適当に切っていた。大学生になってから一人暮らしを始めた俺は、それまで通っていた実家の近所の床屋にも行かなくなり、バイト生活に明け暮れていた。金の使い道で一番に削られたのは身なりにかまう事だった。元々ファッションなどには疎い方だから、気にする事なく年中ジーパンTシャツで過ごしていた。社会人になってからはスーツ一式がある程度揃っていれば、服装には困らない。私服といえば近所に買い物に行く位の用途しかないものだから、量販店の安物で充分用が足りてしまう。あとは部屋着のスウェットで問題無い。お洒落をする機会もきっかけも俺の人生において未だかつて訪れた事が無い。

 このまま受け流してもいいだろう、という結論に至る。彼とて仕事でやっている事なのだから、いくらなんでもタダでという訳にもいかないだろう。引っ越してからまだそれ程経ってもいないので、何かと要り様で無駄な出費は避けたい所だ。あちらから声を掛けてきたのだからそこは気にしなくても良いのかも知れないが、俺としては居た堪れない気持ちになるだけだ。
 地味で冴えない俺なんかにいつまでも彼がこだわり続ける事も無いだろう。偶々俺の姿が、いや、みっともない髪型が目についただけでその内無かった事になる。世の中、そんなものだ。あの道を通る限りまた会う事もあるだろうが、挨拶程度で済ませば良い。好意だけは受け取りました、とそんなニュアンスを感じてもらえればそれで良い。
 必要無いものだからと捨ててしまうのはさすがに気が咎めて、名刺を財布へと戻した。昼食を取るのに緩めていたネクタイを軽く直して席を立つ。これから午後の仕事も詰まっている。足早に定食屋を後にして、会社へと急いだ。


 営業部に電話を入れたのだが、目当ての藤本は休憩に入っていて席を外しているとの事だった。時刻を確認すると4時半を過ぎた所。この時間ならきっと社内の休憩所にいるだろう。経理課の同僚に声を掛けてから俺は席を離れた。
 人当たりが良く、誰とでもすぐ親しくなる社交性を持つ藤本は、まさに営業にうってつけの男だ。同期入社という気楽さもあり、俺も藤本が相手であれば世間話の一つも口から出る。
 やはり居た。一緒に談笑しているのは確か人事課の新入社員だと思う。
「藤本、ちょっといいか?」
俺の姿を見た新入社員は「じゃあ、私は…」といそいそと休憩所を出ていってしまった。
「出張報告書、もう上げてあるんだろう?それなら領収書も早くまとめてくれ。」
「お前なあ、もうちょっと愛想良く出来ないのかよ。」
やれやれといった様子で藤本が俺に胡乱な目を向ける。俺としては普通にしているつもりなのだから、そんな事を言われても困る。
「そんなんじゃ、女の子にモテないぞ。『無口で無表情だから何考えてるのか分かんなくて怖いんですぅ』ってなもんだ。」
俺の憮然とした態度にもめげずに妙な声色まで使っておどけている藤本にあきれながら返してやる。
「余計なお世話だ。」
「ま、初めて会った時からそんなだもんな。入社式の時にお前が隣に座ってきて社員席座っちまったかと思って焦ったし。あんまりにも落ち着き過ぎてるからよ。」
値踏みするようにじろじろと俺をねめつけて、藤本は続ける。
「背もそれなりにあるし、身なりとかもうちょい気を遣えばマシになるんじゃないのか。」
「別に不便もないし、困ってないからいいんだ。」
「いやいや、困る困らないの話じゃないだろ。仕事は出来るのに勿体ない。」
俺には言われている意味が全く分からなかった。仕事に来ているのだから、仕事が出来るのならそれで問題無いのではないか。
「とにかく、あとで席まで取りに行くからな。ちゃんと用意しておいてくれ。」
「はいはい、分かったよ。」
ひらひらと手を振って返す藤本を残して、俺は休憩所をあとにした。1時間くらいすれば報告書がきっちりと添付された領収書を回収出来るだろう。仕事は早く、完璧な男なのだ、あれでも。



 都会の夜は日中の熱の冷める暇も無いアスファルトのせいで熱気の籠った空気が漂っている。おまけに室外機からの生温い風が余計に暑さを感じさせる。
 角を立てずに誘いを断るのに忙しさを口実にしようという意識が働いて、ついつい急ぎで無い仕事にまで手を出してしまい、いつもより遅くなってしまった。閉店から既に1時間以上経っているのだから、さすがに待っている事も無いだろうと、やっと慣れた帰宅ルートを変えずに自宅へと向かっていた。




 俺はいつもの時間に店を閉めた。オープン時間にはなかなか落ち着いて出来ないカラー剤や店販用のシャンプー等の在庫をチェックしたりしながら、チラチラと外を窺っていた。
 あの反応からして気軽な気持ちで寄ってくれるとは思っていない。もし店の前を素通りしようとしたら捕まえて、店に引き摺り込んでやる、くらいの気持ちでいる。俺の目の届くところにいる、しかもご近所さんらしい彼があんな中途半端な髪型でいるのは許せない。カラーリングは仕事柄NGかも知れないけれど、少し手を加えるだけであの人の魅力を引き出せる自信はある。素材はいいのだ、絶対に。それが埋もれているのかと思うと勿体無くて、我慢ならない。今日一日、お客さんがいる間以外はずっとあの人の髪を弄る事ばかり考えてワクワクしていた。あまり時間を取らせてしまったら美容室は時間が取られて面倒な場所、と思われてしまうだろうから今日は一先ずあの襟足だけでもどうにかしよう。
 道路に面した大きな窓を拭きながら駅方面の暗がりを覗き込んでみると、人影が見えた。背格好だけが頼りだったが俺は妙に確信めいた気持ちであの人だと思った。俺は手にしていた雑巾を放り投げると外へと飛び出した。数メートル先で驚いたように立ち止まった彼に、にこやかに告げる。
「お帰りなさい、お疲れ様でした。さあ、どうぞ。」
店へ導くように入口に向けて手を差し出した。ちょうどベルボーイがレセプションに案内する時のように。誠意ある態度を無下に出来るタイプじゃないと俺は踏んでいた。
 彼は少し困ったような表情を浮かべたあと、宜しくお願いします、と頭を下げてきた。


 カバンとスーツの上着を預かり、カット台に座ってもらってクロスを掛ける。ああ、やっぱり整ってるな、と鏡越しに顔を見て改めて思った。一つ一つのパーツにぱっと目を引くものはないが、バランスが良い。左右対称というのか、整っているという表現が一番しっくりくる。座っていても姿勢が良いから余計にそう感じるのかも知れない。ただ、視線は自分の手元に落ちたまま落ち着かない様子なのが見て取れる。
「ドライのままカットして、最後にシャンプーしますね。そんなにお時間取らせませんから。」
リラックスしてもらおうと声を掛けながらシザーとコームを手に取った。襟足をコームでさっととかし、シザーを縦に入れていく。ごく浅くだ。
「美容院、初めてですか?」
「あ、はい。」
染めた事が無さそうな髪は多分適当なハサミでカットしていたようで毛先が傷んでいる。でも全体の手触りは良い。下手に弄っていないのが幸いしているのだろう。硬いというよりハリがある直毛。癖はほぼ無い。
「ダメージが少なくて、綺麗な髪ですね。」
「……そう、ですか…。」
少し照れ臭いのか、もごもごと何とか返事をしたといった感じだった。男性はあまり髪を褒められたりしないから、いかにもな反応だ。その慣れない感じが可愛いと思ってしまう。でもあまり突っついてしまっては可哀そうだ。俺は話題を切り替える。
「俺、ここに店をオープンしたのが1年前なんですけど、お引っ越しされてきたんですか?最近よく見掛けるな、と思ってたんですよ。」
「あ、ああ、1ヵ月位前に。会社の近くに引っ越したいとずっと思っていたので。」
「その方が楽ですもんね。俺も近所に住んでるんで、職場が近い楽さは身に沁みて分かります。」

 低く流れるBGMと鋏を入れる音の合間にぽつぽつと会話を交わす。俺もはしゃぎ過ぎないようにトーンを抑える。相手にテンポを合わせて、呼吸を合わせて。それが心地良い空気を生む。
「さ、出来ました。流しますね。」
コームで髪を梳いて、全体の長さをチェックした。とりあえず襟足だけはなんとか見られるようになった。椅子を回してシャンプー台へと促す。顔にはねないようにフェイスペーパーを乗せてノズルを手にした。
 シャワーの温度をチェックして髪全体を濡らしていく。
「熱くないですか?」
お決まりの台詞で確認を取って、しっかりと濡らしてからシャンプーを始める。指の腹で揉み込むように頭皮をマッサージすると、肩の強張りが少し取れたようだ。きっと緊張したままだったのだろう。もっとリラックスしてもらいたくてゆっくりと念入りにシャンプーをしていく。こめかみの近くや項の辺りを親指の腹でぐっと押さえるように刺激する。指がほとんど入らない感触からかなり凝っているのが分かる。シャンプーの泡を流して、今度はトリートメント剤を手に取って髪に馴染ませていく。ヘアパック成分も入っているものだから、もう一度じっくりとマッサージを施してから軽く流した。
「気持ち悪いところはないですか?」
襟足を流しながら尋ねると、大丈夫ですと店に入ってきたばかりの時より幾分柔らかくなった声が返ってきた。その声を聞いて、俺は自然と笑顔になる。少しでも寛げる、居心地の良い店にするのが俺の目標なのだ。その為には技術はあって当たり前だと思っている。更に言えば、基本のシャンプーが出来ているかどうかはとても重要だ。ひたすらシャンプーだけをする日々を送るのが見習い時代の通過儀礼のようなもので、これを軽視する人間は良い美容師にはなれない。俺の持論ではあるが、シャンプーの上手い店は新人教育をしっかりしていて目が行き届いている良い店である確率が高い。
 軽くタオルドライをしてシャンプー台から再びカット台へと戻ってもらい、ドライヤーをかけ始める。
 まず後頭部の根元に温風を当てながら、髪をかき回していく。癖の無い髪は濡れていても指通りが良く、さらさらと指の間をすり抜ける。全体を充分に乾かしてから、仕上げにブラシを通した。
 ここまでの所要時間、20分弱。俺としてはなかなか手際良く、いい仕上がりになったと思う。

「こんな感じですけど、どうですか?」
折り畳み式になっている鏡を広げて後ろがカット面に映るようにして問い掛けた。
「あ、はい。大丈夫です。」
大して確認もせずに返ってきた彼の言葉に思わず苦笑する。
「触ってみて下さい。ご自分でカットされていたなら、その方が良く分かると思うので。」
俺の言った通りに彼は素直に襟足に手を伸ばす。すっと伸びた長い指と短めに揃えられた爪が目に入る。少し血管の浮き出たその手はなかなかに魅力的だ。彼は後頭部から項へと何度か撫でおろすと納得した様子でもう一度、大丈夫ですと答えた。
「あまり長さは変えてませんが、ずっと格好良くなりましたよ。」
笑顔でそう告げて、クロスを外してタオルで項を拭う。少し耳が赤くなったように見える。ひょっとして『格好いい』に反応したのだろうか。言葉は少なく、人付き合いも上手い方では無さそうだが、そういう不器用さがとても彼らしいと思う。 「お仕事帰りでお疲れの所、引きとめてしまってすみませんでした。今日はカットさせて頂いてありがとうございます。」
出口へ送ろうと預かったカバンと上着を手渡すと、
「あの、お代を……。」
と慌ててカバンを探り出した。
「お代は頂けませんよ。俺が勝手にお願いして切らせてもらったんですから。」
どうしていいか分からないという戸惑った表情で固まってしまった彼に
「それじゃ、お代の代わりにお名前伺ってもいいですか?ご近所さんだから他の所でお見かけするかもですし。」
我ながら良く分からない申し出の理由だとは思ったが、今日だけで終わってしまう訳にはいかない。これからも切らせてもらいたいのだ。ちょっとした変化を自分が生み出して、楽しむ。それで彼自身も同じように楽しんでもらえるようになったら、そんなに嬉しい事は無い。俺の美容師魂に火を付けたのだから、彼には諦めてもらうしかないのだ。
 俺は粘り強く、笑顔のまま彼をまじまじと見つめる。固まっていた彼は再びゴソゴソとカバンの中を探って取り出したのは一枚の名刺。
「保坂です。」
折り目正しく名刺を差し出す姿は正に絵に描いたようなサラリーマンの所作。こんな生真面目さが俺の目には新鮮に映った。
「保坂尚吾さん、ですね。よーく覚えておきます。」
俺は両手でその名刺を確りと受け取った。