「あ、保坂さん、おはようございます!」
「お早うございます。」
あれ以来、俺に気付くと彼は必ず声を掛けてくれるようになった。毎朝では無いが彼は店の前の花に水を遣ったり、掃除をしたりしている。特別な会話を交わす訳でも無い。
「今日も暑いですね。あ、でも明日は雨が降るらしいですよ。」
「そうなんですか?」
「朝の天気予報で言ってました。それで少し涼しくなってくれるといいんですけどね。」
そう言いながら空を仰ぐ彼につられて俺も一緒に見上げてみる。いかにも夏の朝の空という薄い水色が広がっている。その眩しさに思わず目を細める。こうして空を見上げる事など、どれ位ぶりだろう。何だかとても新鮮な気持ちだ。
「お仕事前に引き止めちゃいました。いってらっしゃい!」
「あ、ああ、そうですね。行ってきます。」
俺は軽く会釈をして再び駅へと歩き出した。
「これ、森さんの差し入れだって。」
「さっすが森さん、分かってる〜。これって駅前の新しい所のじゃない?」
「わ〜、美味しそう!私、チーズケーキね。」
休憩室から漏れ聞こえてくる女子社員達のかしましい話声に思わず足を止めた。階下の営業部で領収書の確認をして戻ってきた所だった。森さんというのは長年出入りしているオフィス機器の営業担当者の事で、いつも温和な笑顔と丁寧な物腰の40絡みの男性だ。彼女達の話題はどうやら会社の最寄り駅の目の前にある花屋の隣に最近オープンしたケーキ屋の事のようだ。いつもなら気にも留めないのだが、ふと引っかかった言葉があった。
(差し入れ、か…)
二週間前、あの美容室へ行った時を思い起こす。代金の代わりに名前を教えて欲しい、などと言われて結局代金を受け取ってもらえていない。
ずっと気になってはいたのだ。いたのだが、それで何かをしたかと言われれば、特に何もしていない。美容室で髪を切ってもらったのは初めての体験だったが、あれから後ろ髪に変な寝癖がつく事も無くなったし、シャンプーも気持ちが良かった。他人と接するのを敢えて避けていたが、彼との会話は決して嫌なものでは無かった。あれ以降、彼が話し掛けてくるのを煩わしく思った事も無い。むしろ彼と会話を交わした日の方が仕事にもメリハリがつくようになったとさえ感じる。行ってらっしゃい、と送り出されればこれから仕事をするのだ、と気持ちが引き締まる。
お代を差し入れという形なら彼もすんなり受け取ってくれるのでは無いだろうか。
色とりどりのショーケースの前で腕を組む。いつもより早めに仕事を切り上げた俺は例の店に来ていた。思えばケーキ屋に来たのは子供の時以来かも知れない。子供の頃にはガラスに手をつき、目を輝かせてどれにしようかと真剣に悩んでいたのをぼんやりと思い出す。今でも甘いものは嫌いでは無いが、いつの間にか縁遠い物になっていた。パラパラとスペースが空いているのは、売り切れた商品もあるのだろう。
キラキラと光りを反射するゼリーにふと目を止める。薄い水色のガラスの器に入っていてグレープフルーツの淡い黄色とマッチしている。上にちょこんと乗ったミントらしき緑も爽やかだ。ここ最近のうだるような暑さに辟易していた俺はその涼しげな色合いにひかれた。
「すみません、このグレープフルーツジュレを2つ、あと…おすすめはありますか?」
愛想の良い店員さんが贈り物なら少し日持ちがするものがいいだろうと可愛らしい小さな箱に入った焼き菓子の詰め合わせを薦めてくれたので、素直にそれに従った。何にせよ、こんな風に誰かの為に何かを贈るような真似をした事が無い。よくよく考えてみれば自分からすすんでプレゼントをした経験など皆無だ。片手で充分事足りてしまう数少ないお付き合いの中でプレゼントを贈った事はあるが、それらは彼女が好きな物を選んで俺はただそれを買ってあげていただけだった。
彼も気に入ってくれるといい、そんな事を思いながらどこか浮足立ったような心持ちで店をあとにした。電車の中でも箱が傾かないように慎重に持ち運ぶ。最寄り駅に着いたのは19時半を少し回った所だ。営業時間内だからまだオープンしているだろう。足早に、それでも細心の注意を払って彼の店へと急いだ。
外から中の様子を窺う。明りはついているが、お客はいないようだ。しかし、彼の姿も見えない。ドアに手を掛けると鍵は掛っておらず、控え目にドアベルが音を立てた。
「あの…こんばんは。」
恐る恐る声を掛けると店の奥から彼が顔を出した。
「あ、保坂さん、こんばんは!今日は早いお帰りなんですね。カットですか?まだ出来ますよ。」
タオルで手を拭きながら出てきたのできっと片付けている所だったのだろう。しかし彼は満面の笑みで俺を迎えてくれた。接客業は本当に彼の天職なんだろうと俺は感心してしまう。
彼の笑顔についつい目を奪われて一瞬ぼんやりしてしまったが、当初の目的を思い出して気を取り直す。
「あ、いや…そうではなくて………これを…。」
大事に持ってきた箱を彼の前に差し出すと、彼はきょとんとした顔でそれと俺の顔を交互に見た。
「その…先日は有難うございました。お礼という程でもないんですけど。」
「……頂いちゃっていいんですか?」
受け取ってもらえないのではと一瞬不安が過ったが、彼の遠慮がちな受け答えに俺はコクコクと小さく頷いた。言葉足らずな自分に気恥かしくなる。もっとスマートに振る舞えればいいのに口べたな自分はそれが上手く出来ないのが歯痒い。
「ありがとうございます!わー、何ですか?開けてもいいですか?」
彼はタオルを近くのワゴンに放ると恭しく箱を受け取り、受付のカウンターに置くと丁寧にセロハンテープを剥がしにかかる。彼の子供の様な無邪気な反応にほっと胸を撫で下ろす。
「美味しそうですね。俺、甘いモノ大好きなんです。すっごい嬉しいです!」
キラキラと目を輝かせながら素直に喜びを表現する彼が何だか可愛らしく見える。
「せっかくなんでご一緒にどうですか?」
「え…?」
無事に渡せて帰るタイミングを計っていた俺は虚をつかれた。
「いや……その…。」
「あ…お時間ないですか?ひょっとして誰か待ってらっしゃるとか。」
いかにも残念だという表情で俺の顔を覗き込んでくる。まるで小動物の様なつぶらな瞳で訴えられては、嘘をついてまで断るのは気が引ける。
「今、紅茶入れるんで。はい、ここに座って下さいね、すぐ用意しますから。」
そう言い置くと彼は店の奥に引っ込んでしまった。仕方なく彼に勧められた椅子に腰を下ろした。店の奥はカウンターから覗けない。俺は手持無沙汰で店の中を見渡す。カット台が2つ、シャンプー台が1つ。全体的に白を基調にした店内に観葉植物が置かれていて、無機質な空間を和らげている。椅子や大きな鏡の枠はオレンジ。彼の明るい人柄を反映しているような何だかほっとする空間だ。ぼんやりと店を眺めているだけで肩の力が抜けてリラックス出来る。
「お待たせしました、どうぞ。」
「あ、どうも有難うございます。」
彼は慎重に器を取り出すと嬉しそうに眺めている。
「キレイですね〜、夏っぽくて涼しげで。」
彼も同じように感じてくれていた。それだけで少し彼に近くなった気がして、何だかとても嬉しくなった。
シャワーを浴びてミネラルウォーターの入ったグラスを手にベッドに腰を下ろす。結局あの後、すっかり寛いでしまった。口べたなはずの俺が色々喋った様な気がする。自分でも驚く程口が軽くなっていた。おまけにこの間のお返しと思って差し入れを持って行ったというのに、気が付けば1時間以上雑談し、新しく取り入れたメニューを試して欲しいと請われてまたしても断り切れずに甘えてしまった。頭皮のマッサージをしながら毛穴に詰まった汚れを綺麗にし、髪の健康を保つ効果があると言われた。
人に触れられるのをあれ程心地良く感じたのは初めてだった。あまりの気持ち良さに短い時間だが意識が飛んでしまっていた。
絶妙な温かさと柔らかに触れてくる指先に解されていく感覚に自然と力が抜けていった。まるで魔法にでもかかってしまったようだった。おかげで体も心もリフレッシュ出来た。髪を乾かした後にも首と肩を入念にマッサージしてくれた彼は、満足気な顔で俺を送り出してくれた。またお代を払い損ねてしまったが。
それをどこかで喜んでいる自分がいる。これでまた彼の店に行く口実が出来た、と。
残ったミネラルウォーターを一気にあおると、普段より指通りの良い髪を確かめるようにかき上げてから俺はベッドに潜り込んだ。