愛のスパイス1




 ここ半月程、野分とまともに会話をしていない。俺はテスト問題作成に追われ、やっとカタが付いたかと思ったらその後は当然のこと、答案チェックに追われて。
 野分は野分で相変わらず忙しい日々を送っていて、ここ最近は特に忙しいのか、ほとんど家に帰ってきた形跡が無い程だ。
 そんなすれ違い生活。慣れてきたものの、一人で部屋に居るのが少しだけ…ツラいと感じてしまう時もある。


 『今日、暇か?』
いきなりの電話。講義は終わっていて、資料整理をしていた所だ。いつの間にかとっぷりと日も暮れていたのをこの電話が掛かってきた事で認識した。電話の主は秋彦だった。
「……今まだ大学だけど。」
現状だけを端的に伝える。無駄話をわざわざするような相手じゃない。
『なら迎えに行く。新しい小説のプロットの下読み頼みたいんだ。ついでにメシでもどうだ?20分後位で。』
「分かった。」
秋彦も用件だけを告げてきた。「暇じゃない」と答えなかった俺の返答に予想がついたんだろう、断定するような言葉に口調。俺は簡潔に承諾の返事をした。



 「……そうだな…。この場面はどこになるんだ?この時の環境設定、大事なんじゃねえの。これだと分かり難いと思う。とりあえず気になったのはそこだな。」
「ああ、そうか。毎回助かるよ。」
和食の居酒屋。各テーブルが個室状態になっていて、周りを気にしないで済む。ドライバーの秋彦が飲めないからと酒は遠慮しようと思っていたが、すすめられるままに結局ビールを飲んでいる。読みながらだと飲み物を口にする位しか出来ず、俺はすきっ腹のままアルコールを流し込んでいた。
「酒を飲んでもいいと言ったが、メシも食え。ほら。」
箸を差し出されて、俺はそれを受け取った。適当に頼んだつまみの類のものがテーブルに並んでいる。
「ああ、ありがとう。」

 どうせ家に帰っても野分はいないはずだ。今日もすれ違い。たまたま秋彦が誘ってくれた、というか下読みを俺に頼んできたから一人でご飯を食べる状況にならなかった。俺一人だと食事を抜いてしまう事も多々ある訳で、それを野分に注意される事もしばしばで。


 「最近、同居人と会話どころか顔すらまともに見てないんだよ…。」
酒の力は偉大だ。俺の意図していない言葉を口から出させる。秋彦相手に愚痴が零れてしまう。こいつの前でいらん事を口走るとあの、ウハウハパッションピンクなおぞましい小説のネタにされてしまうと頭では理解しているのに、止められない。
「研修医ってのは忙しいんだろう?大変だな、お前も。」
俺の話に相槌を打つ秋彦はいつものように煙草をふかしている。
「大変なのは俺じゃねえ……。」
 あいつはまともにメシ食ってんのか?俺にそんな心配されんのは心外だと思うけど。
 休む時間も無い程、忙しくしてんのか?時間が無い中で句読点もままならないようなメールをくれてもろくに返事もしない俺に言われたくないと思うけど。
 ………生きてんのか、ちゃんと…。
 声が聞きたい。顔が見たい。会いたい…。
 「まあ飲め。俺が許可する。」
そう言いながら秋彦は俺のグラスにビールを注ぐ。すすめられるがままに酒を口にしていく。酔っ払えば寂しいとか、そんな気持ち、少しは紛れるかも知れない。
 「なあ…煙草ってうまいのか?」
大概の喫煙者は「煙草はストレス解消だ」という。執筆関係者には喫煙者が多い。目の前の秋彦しかり、宮城教授もかなりのヘビースモーカーだ。俺も吸った事が無い訳ではないが、とかくいいものだとは思わなかったままで今に至る。
「どうした、いきなり。吸うか?」
そう言われて目の前に差し出された煙草の箱。深く考えもせず、これまたすすめられるがまま手を出した。一本抜き取ると、慣れた手つきで秋彦がライターに火を付けてくれた。
 一息、吸い込んでみる。途端にむせた。ああ、煙草ってこんな味だったか…。
「大丈夫か?」
苦笑しながら秋彦が言う。それに少しカチンとくる。同い年なのに、悠然とした大人の男を感じさせる目の前の人間。前から思ってた。余裕に裏打ちされた優しさがずるくて、いけすかないヤツだ。男としてのプライドを知らず逆なでするというか、自分の知らない所で男の敵を作っているタイプだ。よくよくコイツを知れば、かなりずぼらで不器用で、それでいて繊細なヤツだというのが分かるのだが。
 意地で半分程まで吸ったが、いかん、頭がくらくらする。
「おい、やめとけって。」
見るに見かねたのか、秋彦が俺の手から煙草を奪って、灰皿へと押し付けた。心なしか気分も悪い。あまり食べ物を口にせず、酒を飲み、そこに慣れない煙草。具合が悪くなるのも頷ける。
 我ながら情けない。こめかみを押さえた俺の様子に異変を感じたのか、秋彦は送ってやるから帰れ、と促した。



 「ヒロさんがお世話掛けました。わざわざありがとうございました。」
野分の目が据わっている。その視線の先は俺ではなくて、秋彦だ。わざわざ部屋の前まで送り届けてくれた秋彦にその態度は無いだろうと文句の一つも言いたい所だが、俺はそれどころじゃない。頭痛と若干の吐き気を感じていて、早く横になりたいとか、そんな事ばかりが頭に過ぎる。
 大体、何で野分が今日に限ってこんな時間に家に居るんだ。昨日でも明日でもなく、今日。
 「いや、それ程でも。ヒロキにはいつも世話になってるんで。」
秋彦、てめーは何でそこでニヤニヤする?
「…もういいから、早く帰れ。」
送ってもらっておいて、俺も結局ひどいことを言う。余計なことを言わせまいという心がこういう台詞を口に出させた。
分かった分かった、と言いながら俺の肩を叩き、そのまま踵を返すのかと思いきや、何故か野分の方へ視線を投げた。
「俺とヒロキは何でも無いから、心配しなくていい。」
………何だ、それは。それが余計なことだ、マジで。どうにかしろこの男を。野分が俺の腕を掴む。まるで自分のものだと縄張りを主張するオスみたいな顔して。秋彦、お前はこの責任をどうとってくれるんだ。
「いいからとっとと帰れっ!」
俺は頭痛の酷くなった頭を抱えて言い放つ。わざとだ。絶対にわざとだ!
「まあ、そういう事で。」
じゃあな、と言ってスタスタとその場を立ち去った秋彦の背中に、恨みがましい目線を飛ばした所で、あいつにはきっとどこ吹く風だろう。