おててつないで。 2





 一面ピンクだった桜並木もいつの間にか綺麗な緑色の葉桜に変わっている。講義が終わって、その木陰を抜けてサークル棟へと向かう。俺も修二もすっかり大学に慣れた。しのさんや他の先輩達のアドバイスを貰って、悩みの種だったコマ割も思ったよりスムーズに決めることが出来た。これだけでもサークルに入った価値があったというものだ。勿論、俺の一番の目的はそこじゃないんだけど。
 修二はバイトを始めて、俺みたいに毎日のようにサークルに行くことは無くなって、今日も俺一人。
「ちわーっす。」
サークル棟1Fの一番奥のドアを開けて、挨拶と共に俺は目当ての人の姿を探してしまう。

 いた。
 いつもの定位置のベンチに座って、ギターをいじっていた手を止めて、俺に笑顔を向けてくれる人。俺も釣られて笑顔になる。
「しのさん。」
俺はいそいそと部屋に入り、これまた定位置のしのさんの左隣にちょこんと腰を下ろす。ここでの時間は俺にとってパラダイスだ。左隣のベストポジションでしのさんの手をじっくり観察する。
 ギターのネックを握る手、ピックを抓む指、煙草を口元に運ぶ仕草。どれを取っても完璧な手には変わり無い。いくら見ていても飽きることなんて無かった。
 触れたくて、思わず手を伸ばす。

 しのさんのギターを弄っていた手がぴたっと止まった。
「邪魔すんなって。」
「あっ、すみません、つい……。」
無意識に伸ばしていた手。あわよくばこのまま触ってしまいたい、と不埒な願望を抱いていたら、
「そこー、イチャイチャしなーいっ!」
いきなり大きな声が聞こえた。部長の山本さんが丁度部屋へと入ってきて俺達に指を差していた。
「イチャイチャなんてしてませんよ〜。」
否定してみた所で、山本さんには通用しない。おまけにしのさんも、
「なんだ、ヤキモチか?」
なんて言って俺の肩に腕を回す。
「ゆずちゃんは皆のゆずちゃんよ。独り占めなんて許さないわよ。」
山本さんは俺の肩からしのさんの手を払いのけて、俺達の座るベンチのすぐ側のパイプ椅子に腰を下ろした。そしてにっこりと俺に笑いかける。逆らえない、妙に迫力のある笑顔。正直、ちょっと怖い…。返す笑顔は引き攣ってると思う。
「山本。ゆずが怯えてるぞ。」
「しの、うるさい。ゆずちゃん。そんなこと、ないわよねぇ?」
 こんな毎日が俺のいつもの日常となっていった。




 今日は野外ライブの日。といっても、学園祭のステージだけれど。新入生達も大学生活のサイクルに慣れ始め、少し気が抜けてきてしまう、そんな時期。本格的に暑くなる前の6月中旬に行われるこの大学での一大イベントだ。
 梅雨真只中だというのに、幸運にも今日は快晴。人出もなかなかでいつになくキャンパスは賑わっている。そんな中、サークル仲間は皆で機材や楽器を運んでいた。むろん、俺や修二のように演奏に参加しない人間も裏方として手伝っている。主に力仕事を任されるから、体格のいい修二は特に重宝がられていた。
「これも運んでくれる?」
山本さんから声が掛かった。彼女の担当するドラムスは運ぶものも多い上に重たいからどうしたって男手が必要だ。
「分かりました!」
運ぶものを確認しながら、俺は機嫌良く返事をした。
 今日は心待ちにしていた日なのだ。今日の演奏メンバーはサークル内でも上手い人達が選ばれている。俺でも知っているような有名な曲のコピーだし、何よりしのさんが本気でギターを弾く姿が見られるなんて、本当にラッキーだと思う。
「楽しみだよな。」
浮き立つ心のままに一緒に機材を運んでいる修二に話しかけた。
「お前の目当てはしのさんだけだろうが。」
「だけじゃないって!」
俺の言葉に修二はおざなりな返事をした。

 もうすぐ始まる。ステージ上では機材に詳しいサークルの先輩達がアンプの設置をしたり、コードをさばいたりしている。その脇で待機しているのはメンバーと荷物運びだけしか出来ない力仕事の面子だけ。
「なんか、俺まで緊張してきちゃいました。」
準備をしているこの喧騒の中で気にする必要は無いのだけれど、思わず身を寄せて小声でしのさんに話しかけた。
「出ないくせになんでゆずが緊張してんだよ。」
ギターの弦のテンションをチェックしながら可笑しそうに話す口調も、下がった目尻もいつも通りだ。確かに緊張しているようには見えない。
 「スタンバイ、お願いしまーす。」
運営係の学生から声がかかった。
 しのさんはそれに返事をしてから、
「んじゃ、行ってくるから。ちゃんと見てろよ。」
と俺の頭をポンと叩いてからステージへと歩いていった。



 「学園祭成功を祝って、かんぱーい!」
その日の夜、学園祭ステージ成功を祝って内輪だけでの打ち上げが開かれた。勿論、俺も参加していた。両隣はしのさんと修二、真向かいには山本さんと今日演奏したメンバー。
「すっげーかっこよかったです!」
興奮冷めやらぬ俺はジュース片手に熱弁を奮っていた。
「俺、もう感動ですよ。なんか全てがカッコよくてヤバイっす!」
やたらとテンションの高い俺も酒の入っている先輩達の賑やかさの中ではさほど浮いてはいなかった。
「ゆずちゃんはほんと素直で可愛いわ〜。」
はい、これ、と山本さんは上機嫌でサラダを取り分けて俺に渡してくれる。しのさんも山本さんから皿を受け取り、サワーを片手に嬉しそうだ。
「今度は私のバンドも観に来てね。近々ライブやる予定だし。」
「もちろんです、是非誘って下さい!あ、しのさんは予定ないんですか?もしあれば、行きたいな〜、なんて。」
しのさんにさりげなく話題を振ってみる。山本さんのドラムを叩く姿は思っていた通りに格好良かった。他のメンバーは全員男だったけれど、その中でも負けない力強い音で曲を盛り上げていた。
 でも、俺が何よりも目を奪われたのはしのさんのギターを弾く姿。派手なパフォーマンスでは無かったけれど、確実に音を生み出す指には圧倒された。あの綺麗な指先から紡ぎ出される音。
 よくギターが女性に例えて評されるのが分かった気がした。ギターを扱う仕草全てが艶めかしいというか、色っぽいのだ。弦を押さえる左手の形は見る度に滑らかに姿を変え、ピックを持ち、弦を弾く右手はまるでボディを撫でるように動く。思い出しただけでも興奮してしまう。
「いや、俺はしばらく予定ないな。」
苦笑しながら答えを返されて、ちょっとがっかりする。今日みたいな姿、今度はいつ見られるんだろう。
「まあ、ライブやる時があれば誘うよ。修二君も。」
「はい、是非。ゆず一人じゃ、危なっかしいんで。」
「相変わらず保護者みたいだな。」
「性分です。」
「俺はそんなお子ちゃまじゃないっ!」
憤慨して口を挟むも、
「はいはい。」
と二人して俺をなだめてくる。完全に子供扱いされて腹が立った俺は、手近にあったグラスを手に取り、一気にあおる。
何か不思議な味がする…。それでも自分が今まで飲んでいたものと色は変わらなかったから、特に気にかける事無く飲み干してしまった。


「あれ、俺のグラスは?」
しのさんがきょろきょろと自分の周りを見回して、最後に俺の顔を見てぎょっとする。
「ゆず、お前ひょっとして俺の酒………飲んだ?」
「え〜?何がですかー?」
何だか凄く気分がいい。体があったかくて、まるで雲の上でも歩いているみたいにふわふわしている。
「たった一杯でこれかよ……。」
大丈夫か、と言いながらしのさんが俺の目の前で手をひらひらと振る。
「しのさんの手、ほんといいっすね。きれいでちょー俺の好みで…。」
もっと近くでその手を見たくて、俺は思わず手を伸ばした。
「あー、やっぱり触り心地もサイコー…。」
しのさんの手を取り、近くでじっくりと堪能する。頭を撫でられたりすることはあったけれど、こうやって自分から触れたのは初めてだ。見た目通りに触った感触も心地良くて、形を確かめるように撫でたり軽く握ってみたりする。
「あは、俺、幸せだ〜。」
かみ締めるようにして零れた台詞。こんな間近で綺麗な手を見られて、その上こうやって触れられて嬉しくない訳が無い。
 その様子を修二は見るに見かねたらしく、俺をしのさんから引き離そうとしてきた。
「しのさんに迷惑だろうが。ほら、離せって。」
「いーやーだー!」
後ろから手を引っ張られたが、俺は頑としてしのさんの手を離さなかった。
「愛されてるわね、しのってば。」
笑いながら山本さんが言う。
「そうですよ、愛しちゃってるんです!だから邪魔すんなっ、修二のバカッ!」
俺は修二に悪態をつきながら、しのさんの手を両手で握り、抱え込むように顔を寄せた。
「いいって、いいって。」
苦笑交じりによしよしと俺の頭を撫でてくれるしのさん。それがまた気持ち良い。あまりの心地良さと、初めてのアルコールのせいで睡魔が襲ってくる。
「しのさん、俺…俺ね、しのさんの手、大好きなんスよ…。」
ぼんやりしてきた思考のままで、しのさんの手に頬を寄せていた。その温もりでどんどん眠くなっていく。
「…おい………ゆず――。」
誰かに名前を呼ばれていたみたいだけれど、俺は返事もままならない内に思考は途切れてしまった。




 何だろう、これ………。あったかくて、気持ち良くて。その正体を確認しようと、薄っすらと目を開けた。
 ぼやけた視界に映ったのは人の顔。無意識に握っていたのはその人の手…それを誰だか認識した瞬間、俺は一気に目が覚めた。
「えっ、あ…なんでっ!?…うわっっ!!」
情けない声を上げて、後ずさった途端に体に鈍い衝撃を受けた。
「…んっ……あ…だいじょーぶか…?」
どうやら俺がベッドからずり落ちた音で目が覚めたらしいしのさんがまだ眠そうな様子で声をかけてきた。
「だ、大丈夫です!」
ひとまず返事はしたけれど、俺は軽くパニック状態だ。
 そんな俺を尻目に、しのさんはベッドから起き上がり、おはよう、なんて暢気な調子で言ってくる。
「あー…なんか朝メシ用意するから、ちょっと待ってな。」
しのさんは伸びをしながら部屋の隅にあるキッチンへと向かう。

「起きたのか、ゆず。」
後ろから急に声をかけられて、驚いて振り向けばそこには修二の姿があった。
「なっ、なんで修二もいんの!?」
ソファの背もたれから身を乗り出して目を擦っている修二。
 俺が覚えているのは、学園祭の後、打ち上げと称して皆で居酒屋に行って騒いでいた所までで、ここは何処なのか、何でこんな状況に陥っているのかも全く分からなかった。
 俺の困惑を感じ取ったのか、修二が欠伸交じりに教えてくれた。

 俺はどうやら間違ってしのさんの飲んでいたサワーを自分のジュースと勘違いして飲んでしまい、酔っ払ったあげく、しのさんに絡みまくっていたと言う。修二は俺を連れて先に帰ろうとしたらしいのだが、俺が何をどうやってもしのさんの手を離さなくて、しかもそのまま寝てしまった。それで仕方なく俺を連れてしのさんの家に運んでくれた。俺が眠りながらもしのさんの手に懐いて離れないから、しのさんはそのまま俺と一緒にベッドで寝て、修二はソファを借りて泊まらせてもらったという、衝撃的な事実を知ってしまった。
「……俺、そんなことしたんだ……。」
「すげー絡んでたぞ。『しのさんの手が大好きなんです!』なんて言って、ずっと離さなくてさ。少しは反省しやがれ。」
「うわー……。」
と口に出したものの俺は内心嬉しくて仕方無かった。しのさんはわがままを言った俺をわざわざ家に上げてくれて、面倒まで見てくれた訳で。
 しかし、酔っ払っていて覚えていないというのが残念だ。修二の言う通りなら、おいしい体験をした一夜だったというのに。
「出来たぞ〜。」
間延びした声でしのさんが手招きをする。朝食を運ぶのを手伝えということらしい。俺は用意されたハムエッグとトーストの乗った皿を運び、修二はマグカップを手にする。
「すごいっ、ちゃんとしたご飯だ!」
いただきます、と手を合わせてしのさんの作ってくれた朝食にありつく。
「なんか色々迷惑かけちゃったみたいで、すみませんでした。」
ハムエッグを突きながら、しのさんにペコリと頭を下げた。
「気にすんな。ってか、お前覚えてんの?」
「いや、それが…。今、修二から聞いたんです。惜しいことしたな、って思ってます、はい。」
照れ笑いを浮かべながら話す俺に、しのさんはトーストをブラックコーヒーで流し込んで、訳が分からないという顔で問い返す。
「何だ、そりゃ?」
「だって、しのさんの手にめっちゃ触れたっていうのに、覚えてないなんて勿体無いじゃないですか。この吉野譲、一生の不覚!って感じですよ。」
フォークを握り締めて言った俺にしのさんは、
「やっぱ、お前って変なヤツな。」
と目尻を下げて苦笑した。