二人きりの世界で 1




 「なあ、いつ位から春休みだ?」
学からそんな話があったのは年が明けてから直ぐの事だった。
 冬休みが終わって初めての講義は教授もあまりやる気になれないのか、いつもより早く切り上げられて、俺はそのまま学の部屋を訪れた。学は撮影の為に明日から海外へ行く。その準備で午後はオフを取って家にいるのを知っていたから。
「えっと……2月の頭にはテスト日程に入るから、そのあとからなら休みかな。」
去年の記憶を頼りに答えると、
「俺の為に時間、とってくれるか?」
と、ずるい返事。わざわざ『俺の為に』なんて言う辺りが学らしいといえばらしいけど。
「いいけど、何?」
「旅行、行かないか?」
俺は鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしたに違いない。
 そのまま黙ってしまった俺を学は困ったように眉を寄せて微笑んだ。返す言葉を見つけられなくて目を逸らすように俯いたら、頭を抱えられ、気が付けば学の胸に抱き寄せられていた。
「んな顔すんなよ。イヤか?俺と旅行行くの。」
「………んなこと、ねぇけど。」
可愛くない返事に学は俺の髪をくしゃりと撫でて、いつものように笑った。


 時間が取れたら旅行でも行こうな、と言われた事はあった。でも学は仕事が忙しい上に不定期な休みになりがちだから、そういうのは難しいだろうと思っていた。無理に仕事を調整して、休みを取って、余計に疲れさせる結果になるのも嫌だった。
 そんな思いが頭に過ぎったから学からこんな話があって思わず返事に窮してしまったのだが、本心ではやっぱり嬉しかった。デートいえば、行きつけのレストランで食事か学の部屋。人の多い所へはなかなか行きづらいのだ。
 いつもと違う、でも二人きりの時間が過ごせる旅行。楽しみでないはずがない。
 学は何とは無しに俺の気持ちを察してくれるのだ、憎らしい程に。





 「さみーっ。」
連れて来られたのは、まだ雪の残る温泉地。都内から3時間弱で辿り着いた、草津温泉。
 ここまでの道中は快適だった。というのも……。


 荷物があるから家まで迎えに行かせろ、と押し切られてしまった。勿論、それは学の優しさなのは分かっているが、何となく気恥ずかしいものがあった。
『あと5分で着く』
短いメールが届いたのを確認して、いそいそと身支度を整える。それまで携帯とにらめっこをしていた事はここだけの話だ。お土産よろしくね〜、という暢気な母親の声にてきとうに返事をして、俺は玄関を出た。
 家の前で学が来るだろう方向を眺めていると、シルバーの車が見えてきた。一目で学の赤いフェラーリじゃないのが分かったから、俺は視線を落とし、バッグを担ぎ直してダウンのポケットに手を突っ込んだ。
 その車は近付くにつれて徐々にスピードを落としてきたが、俺が道路脇に立っているから徐行して通り過ぎようとしているのだと思い込んでいた。
「よお。」
しかし、予想に反して車は停止し、声を掛けられて俺は驚いて顔を上げた。車から顔を覗かせているのは間違いなく学だった。
「これ、どうしたんだ?まさか、新車?」
「ちげーよ、レンタカー。俺の車で長距離ドライブはな。」
確かにあのフェラーリじゃ、長時間乗っていたら体が痛くなりそうだ。少し車高のあるゆったりとした車。よく見てみれば、ハリヤーだ。
 回り込んで助手席に座れば、その広さを実感する。シートもスポーツカーと違って柔らかい。さすが高級車だ。
「今度はこういう車にするかな。」
満足げな顔でいたのを学に見られていたらしい。
「…好きにすれば。」
俺は学の視線から逃れるようにそっぽを向いた。
「んじゃ、行くか。」
いつものように俺の頭をくしゃっと一撫ですると、緩やかに車を発進させた。


 その旅館はメインの温泉街から5分程車を走らせた所にあって、周りは雪の被った木々に覆われていてひっそりと佇んでいた。少ない駐車スペースからもこじんまりとした宿だと知れる。
「妹尾様、お待ちしておりました。」
着物を着た上品な女性がにこやかに出迎えてくれた。
「お世話になります、よろしくお願いします。」
学が女将らしきその女性と挨拶を交わしているのを見て、俺も慌てて頭を下げる。
「お荷物、お運びしましょうか?」
隠れ家的な高級旅館だろう雰囲気にもこういう扱いにも慣れているはずも無く、思わず隣にいる学に視線を向ける。
「いえ、このまま部屋に案内してもらえますか?」
女将の申し出を断った学は女将の先導で歩き出す。それにつき従うように俺もついていった。
 渡り廊下の先に離れのようになっている客室。畳のいいにおいが鼻孔をくすぐる。
「大浴場は御座いませんが、あちらの扉から出て頂くと部屋付きの露天のお風呂がありますので、いつでもご利用になれますよ。疲労回復に効果のある天然温泉ですから、是非ごゆっくり。」
手際良くお茶を淹れながら部屋の案内をした女将が腰を上げようとした所に学がすっと何かを差し出した。
「二日間よろしくお願いします。」
女将は再び座り直すと深々とお辞儀をして、有り難く頂戴致しますとそれを受け取り、静かに部屋を出て行った。
 俺は座卓ににじり寄り、部屋に用意されていた菓子を物色しながら学に問い掛ける。
「今のって…。」
「ああ。いわゆる袖の下、ってやつだな。これだけでも多少の差が出るもんだ。気分良く過ごしたいだろ。」
家族で旅行、なんて場面であったやりとりなのかも知れないけど、小学生だった頃の事だから覚えも無かった。
「あのさ、俺も必要だったのか?」
素朴な疑問にひらひらと手を振る。いらないという事らしい。
「大人ぶりやがって。感じわりい。」
憎まれ口をたたくと、
「なんだそれ。」
と笑われた。
 スマートにこういう事をこなす学が腹立たしくもあり、大人として格好いいとも思ってしまう。俺は淹れて貰った茶を啜りながら、上目遣いで学を睨みつける。
「たまには俺にもいい格好させろよ。」
冗談めいた口調で苦笑する学に、たまにじゃないくせに、と胸の内で呟いてお茶請けの最中を頬張った。


 夕飯までにまだ時間があったから、車で通り過ぎてきた土産物屋が並んでいる温泉街の方へ歩いて行く事にした。温泉地の定番、温泉饅頭が店の軒先で白い蒸気をもくもくと上げている。情緒ある石畳の階段があったりして、旅行に来たんだと実感する。観光地とはいってもまだシーズンには早いのか、観光客はまばらで湯治に来ているらしき年配の人が多い。そのせいか街全体がのんびりとした空気に包まれていて、自然と自分の気持ちも穏やかなものになる。学の事を知っている人も少ないのだろう。擦れ違いざまの視線も都会のように不躾に向けられるものではなかった。
 いつもは並んで歩いていると学を見ている人達の視線が気になる。学は慣れてしまっているんだろうけど、俺は隣で何だか居た堪れない気持ちになるのだ。あからさまに向けられる好奇の視線だったり、女同士でコソコソと話しているのを目にしたり。目立つ事自体、一般人の俺にはストレスだし、学の隣にいる俺は周りからどう思われているんだろうとか、無駄な事に心がざわつく。今、この場所でも確かに目立ってはいるのだが、それは背が高いとか、俺もだけど若い人間が珍しいとか、そういう類の目立ち方なのだ。

 その気安さが俺の気持ちを楽にする。二人で並んで歩いているだけで楽しい、嬉しいと思う、そんなありきたりの気持ちを実感したのは初めてだ。