薫る気配 1





 「10日・・・いえ、1週間でいいんです、付き合って下さいっ!」
あまりの突然の告白に俺は呆然とするしか無かった。



 3年前からバンド活動を始めて、段々とファンもついてきて、そんな頃に出会ったのが薫(かおる)だった。インディーだから出来る、ファンも交えた気兼ねの無いライブの後の打ち上げ。俺の隣にはボーカルのアヤさん、それと俺のファンだという薫。
「薫ちゃんはカグラのどこがいいのかね〜。」
からかうようにアヤさんが薫に声を掛ける。
「あ・・・えっと、カグラさんのギターが好きなんです!それにギター弾いてる姿がかっこいいし・・・。」
語尾が段々と小さくなって、最後には顔を真っ赤にして俯いてしまった。俺は見た目だけでキャーキャー騒ぐ女達とは違う薫の態度を好ましく思った。
「それはどうもご馳走様。」
よりからかうような口調でアヤさんはビールをあおる。

 余程恥ずかしかったのか、薫は俯いたままだ。俺はそんな薫の頭をぽんぽんと軽く叩いて、優しく声を掛けた。
「ありがとな。」
「・・・いえ、変な事言って・・・すみません。」
「ギター褒めてもらえるのは嬉しいよ、ほんとに。」
そんな俺の態度に吃驚したようにアヤさんがぽかんと口を開けてこっちを見ていた。
「お前そんな顔もするんだな。いっつも無愛想なのに。」
「悪かったですね、無愛想で。」
「ほら、全然違う顔してやがる。薫ちゃん、助けてよ〜。こいつ、年下のクセに生意気なんだよ〜。」
酒の席でのちょっとした戯れ。この後も俺と薫は少しずつだが言葉を交わした。一番最初のライブから観に来ている事、それが友達のバンドを観に来て、偶々だった事。俺達のバンドの一番好きな曲だとか、その曲のギターが凄く好きなんだとか。
神楽坂亮平(かぐらざかりょうへい)、それが俺の本名だと教えてやると、亮平さんって呼んでもいいですか?と控えめに嬉しそうに口にしたのが印象的だった。
 それから何度か打ち上げに誘った。薫はライブの後もいわゆる出待ちをしていてくれたから。その内、携帯のメアドと番号も交換したりして、俺の中では一番親交の深いファンになっていった。

 メジャーデビューが決まって、俺の周りは急激に変わった。今までにないタイトなスケジュール、急増したファン。そんな日常に忙殺されていきながら、安らぐ瞬間があった。薫からのメール。いかにもあいつらしい、控え目な内容。ライブの感想だったり、雑誌のインタビューの事、そして最後は必ず、忙しいと思いますけど、身体に気を付けて下さい、と結ばれていた。頑張って下さいとか、いつも応援してますとか、押し付けがましい言葉と違って、俺の心にすとんと落ちてきて、安心させてくれた。
 メールの返事を返す事が出来なくなっても薫は決してうっとおしくない頻度でメールを送り続けてくれていた。それに、俺はちゃんと知っていた。出待ち集団に薫の姿が見当たらなくなっても、ライブ会場であいつの姿が見えない時など、一度も無かった事を。

 1ヶ月前のライブ、その時初めての事が起こった。会場に薫の姿が無かった。ライブ中、舞台から見回してみても、どうしてもあいつの姿が見つけられず、珍しく俺はミスを連発した。
「らしくねえな。どうした、今日は。」
ライブ後、アヤさんに言われた。リーダーとしては言わざるを得ない出来だった事は俺も認める。
「すみません・・・。」
素直に謝る俺にしょうがねえなとため息混じりに言われた。
「まあ最近忙しいからな、疲れてんだろ。次はしっかりな。」
すみません、もう一度謝って、今日は帰らせて下さいと告げた。



 薫からのメールはそのライブから3日後だった。
『ご迷惑なのは勿論分かってます。でも、どうしても会いたいんです。お時間、作ってもらえませんか?お願いします、どうかお願いします。』
いつもとは全く違う文面に俺は正直戸惑った。それよりもこの必死さ、それにこの間のライブに来ていなかった事が気になって、俺は久し振りに薫にメールを返信した。
『明後日の19時、恵比寿のcielっていうカフェでいい?』





 駅の喧騒から離れた所にあるカフェ。ライブ帰りに偶然目にして、静かで落ち着いた雰囲気が気に入って個人的に何度か利用している。店の入り口で律儀に待っていた薫に苦笑しながらも、いかにもらしいと思った。
 夏が近いせいか、日は落ちたものの、空はまだ薄闇だ。俺は店員に頼んで、テラス席に案内してもらう。幸い外から見たテラスには他の客がいなかったし、この暗さなら俺と気付かれる事は無さそうだったから。軽い食事をしながら、ぽつりぽつりと会話を交わす。穏やかな風がキャンドルの炎を揺らす。その儚い明かりのせいか、1年振りに間近で見た薫はひどく痩せているようで、弱々しく見えた。
「この間のライブ、どうしてもはずせない用事が出来ちゃって・・・。ほんとは行きたかったんです、ほんとに。」
心底残念そうに言う薫に思わず笑みが零れた。
「ああ、いいよ、そんな事。次は来てくれるんだろ?」
「勿論です!当たり前です!!」
その即答に声を上げて笑った。この癒されるような心地良さ。声を上げて笑ったのなんて、何ヶ月振りだろう。

 お願いがあるんです、と切り出された。俯いて、耳まで真っ赤にして、それでも俺の様子を伺うように小さな声で言われた言葉。何かと俺は少し薫の方へテーブル越しに身を寄せた。そこで聞かされた告白が『俺と付き合って下さい』だった。

 「亮平さんが男の俺なんか問題外なのは分かってます。亮平さんがモテるのも知ってます。振りでいいんです、1週間だけでいいんです。お願いします!」
煙草に火をつけようとしたままあっけに取られて俺は固まってしまった。一息で言い切った後の薫の小さく震える細い肩を、それに合わせるように揺れる前髪を凝視する。

 「・・・ごめんなさい、とんでもないお願いして・・・・・・忘れて、下さい・・・。」
やがてか細い声で呟かれた。
「・・・・・・でも・・・好きでいても、いいですか?それだけ・・・許して下さい・・・・・・。」
「泣くなよ、お前。俺が悪者(わるもん)みたいじゃん。」
不思議と嫌悪感は無かった、男に言い募られたというのに。自然と手が伸びて、俯いたままの薫の頭を撫でてやる。それに驚いたのか、薫は顔を上げる。

 「いいよ、付き合っても。」

 俺の言葉を聞くと目を見開いて驚いた後、ありがとう、と何度も繰り返し、余計に泣き出した。柔らかな風が俺達の髪をさらさらと揺らす。とっくに闇に飲まれた空の下、俺は薫の涙をぬぐってやりながら自分でも言い表しようの無い、とても穏やかな感情を抱いていた。
 俺はライブが終わったばかりだったし、今は次のアルバムに向けての準備期間という事もあって、いつもより比較的自由な時間があった。それでも完璧にオフになる日というのはなかなか無い。レコーディングも少しずつ始めているし、1週間の内、多分1日あるかどうかという所だ。それを告げても薫は全然そんなのはいいです、と嬉しそうに、はにかんで微笑んだ。