恋心 1





 人は恋をすると周りが見えなくなる、とは誰が言った言葉なんだろう。それに気付いた時には遅過ぎた。最初で最後の恋を俺は自ら手放してしまったのだ。


 1年前、妻は家を出て行った。生真面目過ぎてつまらない、そう言い残し、新しい生活に幼い子供は邪魔だったのだろう、自分の子供さえも置いて。しばらくは自分の親を頼って翔(かける)の面倒を見てもらっていたけれど、やっと自分で面倒出来る環境を整えた。
 今日は翔が3ヶ月前に入園した幼稚園での面談日だ。俺は初めて翔の通う幼稚園へ足を向けた。そこで俺はまさに運命の出会いというべき衝撃的な出会いを果たした。

 「翔君のクラスを受け持っています、高科晶(たかしなあきら)と言います。えっと、翔君のお父さんはこちらにいらしたの、初めてですよね?」

 第一印象はえらく愛想のいい青年、という所だ。男で幼稚園の先生になるのだから、いかにもなタイプと言えるだろう。翔の話にもよくこの『あきらせんせい』が出てくるのだ。
「ええ、これまでは仕事の関係で私の母が代わりに。これからは行事等も全て、私が参加したいと思っていますので、よろしくお願いします。」
「そうですか、分かりました。こちらこそよろしくお願いします。何かありましたら、いつでもおっしゃって下さい。と言いましても、私もまだ新米なんで、色々足りない所もあるかと思いますが・・・。」
そう言いながら頭を掻く目の前の青年は、確かにまだ初々しく、変に気負わずにいる態度に好感が持てた。俺より5つは下ではないだろうか。

 「翔はご迷惑を掛けていないでしょうか?あの・・・母親がいませんから、私もあの子を育てる事に手探り状態なんです。困惑させられる事もしばしばで・・・。」
思わず苦笑いが漏れる。そう、本当に子育ては難しい。子供相手に四苦八苦の毎日を送っている。そう遠くは無い所で他の先生や友達と遊んでいる翔に目をやる。彼も同じように目をやりながら答えた。
「翔君はいい子ですよ、素直で。まあ男の子にしてはちょっと大人しいかな、とも思いますが。お絵描きが好きみたいで、クラスでも一番上手なんですよ。」
そう言って彼は教室の後ろに張り出してある絵を指差した。どうやら園児たちが幼稚園で飼っているウサギを描いたもののようだ。それらを何とは無しに眺めていると、横顔に視線を感じた。ふと視線を戻すと彼がニコニコと俺を見つめていた。不躾とも言えそうな程あからさまに。

 「あ・・・あの・・・・・・何でしょうか?」
思わず尋ねてしまった。邪気の無い顔で見つめてくるのを受け止めながら俺も見つめ返す。不審に思っている事がありありと分かるような表情をしているだろう。
「翔君のお父さん。いえ、君嶋恭司(きみじまきょうじ)さん。俺、貴方に一目惚れしました。好きです、付き合って下さい。」

 「・・・・・・・・・・・・・・・・はっ?」
唐突にあり得ない事を口にした彼に思わず返す言葉を失った。悪びれる様子も無く、未だニコニコと俺を見つめている。やっとの事で発した言葉は聞き返す為の最小限の単語だけだった。
「とりあえず次の日曜日、デートしましょう。勿論、翔君も一緒に。動物園とかどうですか?」
良いも悪いも無い、あり得ない事なのだ。断るのが当然の事なはずだという考えは彼には無いのだろうか。
「・・・いや、そういう事では無く・・・君は俺をからかっているのか?」
イラついた口調になってしまった。人の口に戸は立てられない。きっと俺の噂もどこからか耳に入っているはずだ。妻に逃げられた、甲斐性なしの男だと。そんな年上の男をからかって何が楽しい。
「とんでも無いです。俺、本気ですよ、恭司さん。」
この期に及んでまだ言うのか。しかも相変わらず笑顔で俺を真っ直ぐ見つめている。あまりにも失礼だ。思わず激昂しそうになったが、こんな所で騒ぎを起こしてはいけない。出かけた言葉を飲み込む。

 「ねえ翔君。次の日曜日、先生と動物園行かない?お父さんも一緒に。どうかな?行きたい?」
いつの間にか翔を呼び寄せて、俺を無視して話は進められていた。
「うん、いきたい!ぞうさんとかいる?すっごい大きいんでしょ?」
目を輝かせながらそう話す翔を見て、はっとした。翔と休日に何処かへ出掛けた記憶が無い。妻とも結婚後、すぐ上手くいかなくなった事もあり、家族団欒という雰囲気も知らないのだ、翔は・・・。胸が痛む、我が子への罪悪感で。
「でも・・・おとうさん、いいの?」
不安そうに聞いてくる。こんな小さい子供でも分かっているのだ。
「大丈夫だよ。お弁当作って行こうか。翔も手伝ってくれるか?」
「うん!!」
嬉しそうに返事をする翔に思わず自分も笑顔になる。そのやり取りを傍観していた彼はいきなり翔を抱き寄せた。俺は彼のその行動に目を剥いた。
「翔君、よくやった!!先生は嬉しいよっ!!!君は天使だ、恋のキューピットだっ!」

 「変な言葉を翔に教えないでくれ!」
俺は見当違いな突っ込みを入れながらも、こんなきっかけを作ってくれた彼に少し感謝していた。翔と始めたばかりの二人暮らしで、俺は途方に暮れていたのだ。どうやって我が子と接していけばいいのか、何をしてやればいいのか、そんな事を考えているだけで実行に移す事が出来ずにいた俺の迷いをいとも簡単に拭い去った彼の行動は、俺にとって衝撃だった。




 見事な快晴に恵まれた日曜日、大人の男2人に小さな子供という、不思議な組み合わせで動物園へ向かう事になった。彼はわざわざ車で迎えに来た。電車より気が楽ですよね、と俺に小さな声で耳打ちをしてきた。確かに電車やバスの中で大騒ぎをする子供を思い起こす。それに例え寝てしまったとしても、車であれば寝かせてやる事も出来る。そんな気遣いが妙に嬉しかった。

 「ほら、ぞうさん大きいね。」
「うんっ!!!すごいっ!ぼくもいっぱいたべたらおおきくなる?」
彼は翔を肩車しながら一緒にはしゃいでいる。聞けば、彼はまだ先生になって1年ちょっと、去年就職したばかりで24歳だと言う。今年で30歳になる俺とは気力も体力も違う。休日の早起きが久し振りな俺には、きついものだった。あくびをかみ殺している俺を察してなのか、率先して翔の面倒を見てくれている。
「高科先生、すみません。ほら翔、お父さんが肩車してあげるから。」
「やだ。だってあきらせんせいのほうがおおきいもん、たかいもん。」
そうなのだ。彼の方が格段に体格がいい。背も俺より10センチ以上高いのだ。同じ男として、少し悔しいと思ってしまう。
「大丈夫ですよ、俺、ムダに体力有り余ってますし。しかも今日はこんなデート出来て、もの凄い浮かれてますから。」
やに下がった顔で答える彼に無性に腹が立つ。
「そういう事を子供の前で口にしないでくれ。冗談にも程がある。」
「いやだな、冗談だなんて。本気だって言ってるじゃないですか、俺。」
「どこの世界に子連れの父親を口説く男がいるんだ、全く・・・。」
「恭司さんの目の前に。」
呆れながら、俺は彼には何を言っても無駄だと悟った。

 俺の作った弁当を広げる。おにぎりに唐揚げにゆで卵、それにうさぎに見立てたりんご。ただそれだけの簡単なものだ。
「デートに加えて手作り弁当まで。俺、ラッキーですね。ほんと翔君のおかげだ。」
一人で感動を噛み締めるように呟いている男はこの際放っておこう。いちいち反応するのもバカらしくなってきていた。ピクニックシートの上で弁当を囲む三人、これで片方が女性であれば微笑ましい新婚家庭といった風情なんだろう、とふと思う。翔も本当に楽しそうなのだ。そんな事をつらつらと考えていたら、急に彼が耳元に囁いた。
「何か、新婚ラブラブ夫婦みたいですよね。」
言われた言葉の意味に一瞬にして俺の顔は真っ赤になった。同じ事を考えていた自分が猛烈に恥ずかしかった。
「おとうさん、かおまっかだよ。どうしたの?」
翔が無邪気に俺の顔を覗き込みながら尋ねてくる。
「う〜ん、お父さんはね、きっと先生が言った事が恥ずかしかったのかな〜。あ、ひょっとして同じ事考えてたのかな〜。」
意味深に告げる彼は翔への言葉だけで無く、暗に俺へもそれを伝えてくる。
「大人をからかうなっ!」
「お〜、怖い怖い。翔君、先生を助けて。」
わざとらしく肩を竦ませて、翔の背中へ隠れるようにした彼を翔はその小さな身体で庇うように立ちはだかった。
「ダメだよ、おとうさん!あきらせんせいおこっちゃダメっ!!」
「・・・翔は先生の味方なのか・・・。」
親心としてはちょっと切なくなる。
「翔君は強いね。かっこいいな。先生も翔君みたいになりたいな〜。」
彼は翔を膝に座らせ、頭を撫でている。やはり子供の扱いが上手い。翔は目をキラキラさせながら得意満面の笑みだ。俺は父親だというのに、情けない。
「すみません、調子に乗り過ぎました。機嫌、直して下さい。」
そう言いながら彼の手が俺の頭を軽く一撫でしていった。目を上げれば本当に申し訳無さそうに、困った様子の彼の顔があった。