Novel




仮面の下の遊戯 1





 「2年A組、蜂須賀。放課後、生徒会室に来る様に。以上。」
 硬質な声。気難しさと厳しさが声音からも伝わってくる。でも俺は、俺だけは知っている。この裏に隠された、熱の籠もったドロドロとした感情を。
 俺はひっそりと口端を歪めた。


「潤、呼び出しくらったじゃん。」
クラスメイトの呼びかけに苦笑で返す。
「文化祭が終わったから、反省兼ねて生徒総会があるんだ。その準備だよ。」
「あー、そっか。真野って生徒会顧問だっけ?」
「生徒会長様はお忙しいね。」
「でも、よくもまあ、あんなこえー真野の下で生徒会なんてやってるよな。」
口々に上る、冗談とも本気ともとれない意味の無い台詞。
「ただの内申点稼ぎだって。僕はそんなに真面目にやってないよ。」
軽口で相槌をする。こいつ等も俺と仲良くしていれば、先生にも色々と見逃してもらえるし、そんな利害関係で成り立つ友人でしかない。
 間違いなく、俺の学校内での評価は高い。遅刻をしない、授業も真面目に受けていて成績も良い、学校行事にも積極的に参加し、更にこの生徒会。教師受けも良いし、生徒の中でも問題を起こす事も無い、絵に描いたような優等生。
 特にそれを目指した訳でも無いが、自然とそうなった。お前と同じように生きていたら息が詰まりそうだ、と言われた事があるが、これが俺の当たり前で解放を望んだ事は無かったのだが。
 放課後が楽しみだ。





 少し震える指でマイクのスイッチを切った。
 この学校に赴任して3年。担任を持たない私は生徒会顧問を引き受けた。自分も学生時代に生徒会を経験していた事もあり、偏差値も比較的高く、真面目な生徒の多いこの学校での活動はそれ程難しいものでは無いと判断した結果だ。
 昼休み後の授業の準備に取り掛かる為に職員室の自席に戻る。
 ああ、次のクラスは現代国語だ。先週の授業で志賀直哉の作品を読み解いた所で終わったので、今回の授業は同時代に活躍した作者の作品を幾つか抜粋したプリントを用意した。川端康成と三島由紀夫。
 私個人としては、三島に傾倒する部分が大きい。由紀哉という名も、三島由紀夫から名付けたのだと父から聞かされていた。去年他界した私の父も定年まで教職を勤め上げた人で、家庭でもこと教育、礼儀には厳しい人だった。
 自分の名前の由来となった三島に出合い、文学の世界に目覚めた中学時代。大学でも近代日本文学を専攻し、三島で論文を書いた程だ。
 三島由紀夫。
 美しい日本語表現で、情緒豊かに世界を描写すると評価されている世界的文学者だ。恰幅自殺で短い生涯を閉じた孤高の作家。作品にも人となりにも魅了され、鮮烈な衝撃を私に与えた人物。
 関連する小説、戯曲、映画や三島と親交があったという人物の作品はほぼ網羅しているといって良い。その時に父には明かせない秘密を持った。
 乱歩や澁澤のような、インモラルでアンダーグラウンドな世界に私は囚われてしまったのだ。
 黒蜥蜴に恋をし、サドの世界に酔い痴れた。甘美で淫靡な、彼等の描く非日常は私を虜にした。文学作品として彼等の描く世界を遠巻きに眺める事等、私には出来なかった。その力強い渦に巻き込まれ、それまで真面目一辺倒で生きてきた私の周囲は変わってしまったのだ。いや、私自身が望んで踏み込んでしまった、というのが正しいのだろう。
 しかし、それを悟られてはいけないと、聖職者とも言われる教職に身を投じて今に至る。課題が多く、授業中の私語や遅刻にも五月蝿い私は生徒にあまり好かれてはいない。厳しさ、真面目さを全面に出し、それを仮面として私は生きてきたのだ。



 彼の事は生徒会名簿を見た時から気になっていた。
 『潤』という名前。三島よりも少し早い時期に活躍していた耽美主義の作家、谷崎潤一郎の一文字。
 教師、生徒どちらからも支持を得て、生徒会長になった彼は清廉潔白な凛とした姿勢が印象的だった。笑みを湛えた口許は彼の歳では珍しく包容力を感じさせるもので、非常に大人びて見えた。その初めての顔合わせの時だった。

「ああ、蜂須賀君。これを渡しておかないといけない。」
他の生徒は既に解散し、彼と二人、生徒会室に残された所で私は声を掛けた。
 生徒会室の鍵を手渡そうと彼に向かって手を差し出すと、彼はゆったりとした足取りで私に歩み寄ってきた。
 近くに並ぶと彼の方が背が高く、逞しい体躯をしているのがよく分かる。運動とは無縁の生活をしてきた文学畑の私とは違い、剣道部の主将も務めている彼は文武両道を正に体現しているのだ。若竹のような瑞々しい活力に溢れている。男として微かな劣等感を刺激されるが、それよりも心の闇が疼いた。


 自分よりも優れた、強い牡を何とは無しに主張する彼に支配されたい。辱められ、罵倒され、虐げられたい。所有され、それを彼も悦びとして感じて欲しい。ひた隠しにしている私の本性が頭を擡げてきて、それを必死に抑えようとすると彼の顔を直視する事は出来ず、鍵を乗せた自分の掌をじっと見つめていた。

 伸ばされた彼の手が唐突に私の手を握った。小さな痛みを感じる程の強い力で。
「先生。それは誘ってるんですか?」
問い掛けられた意味を考える間もなく、いきなり引き寄せられ、目の前に彼の顔が迫ってきたと理解した瞬間、唇を塞がれていた。粗野で乱暴な口付け。彼の手が頭へと伸び、髪を掴まれて下に引かれた。
 心が濡れた。彼の加虐的な振る舞いに、身も世も無く悦楽を感じている自分がいたのだ。
仰のける様に彼の唇を受け止める。身体に力が入らない。されるがままに貪られ、口腔の中を舌が行き来する。
「ん、ふっ………んぁっ…っ……。」
唇に歯を立てられ、走った痛みに思わず声を上げた。離れた彼の唇に薄っすらと血が付いているのがぼんやりとした視界に映った。ちらりと舌を覗かせて私の血を嘗め取ったいやに紅い舌、ぞっとする程の怜悧な眼差しのまま如何にも愉しくて仕方が無いという笑みを浮かべている。
 彼の腕が私を解放すると支えが無くなり、その場にくず折れてしまった。まるで彼の足元に跪き、被虐で溢れた感情を表しているようだ。

「アンタ、俺のモノだ。」
彼の断言された言葉が頭の上から降ってくる。彼はいつの間にか落としていた鍵を拾い上げると、踵を返してドアへ向かう。
「失礼します。」
彼は慇懃にお辞儀をすると、何事も無かった様に生徒会室を後にした。
 私は完全に心を奪われてしまったのだ。



 これが、彼との始まりだった。