百花繚乱 〜桃花〜 1




 高い塀の向こうの鬱蒼と茂った森のような庭と大きなお屋敷。小さい頃から見ていた風景。こんなお屋敷にはどんな人が住んでいるんだろうと子供心によく思っていた。


 「そう、そのお屋敷からの依頼なんだ。依頼主は西園寺美果(さいおんじみか)様。あの御大臣の娘さんかな。」
中等を卒業してすぐ、造園業を営む家業の手伝いを始めた。家を継ぐのは兄さんだから、俺はただの作業員という所だ。どうしてそんな御大臣のお屋敷の依頼が俺に回ってきたかというと、
「何でもとにかく種類が多いそうだ。日本じゃめったにお目に掛かれない植物もあるって話だ。そういうのも出来るだけお願いしたいって事で。お前なら、知識だけは一人前以上だからな。しばらく手を入れてなかったから荒れ放題だって聞いてるんだが、時間は幾ら掛かってもいいそうだ。」
との父の談。
 植木屋としての腕はそこそこ、だと自分でも思っている。植物も好きだから、出来るだけ良い状態にしてやりたいと思う、その気持ちがあるせいかお客さんの評判も上々だ。ただ、職人としての気構えが無いと、散々父からも兄からも言われている。そんなの、俺にはいらないと思うんだけど。だって、所詮俺は跡取りでは無いのだ。次男坊の気楽さで、仕事の無い日は知人のいる古書店で植物図鑑やなんかを眺めていたり、高等に進んだ友人にも学校の蔵書にそういった本があれば、借りてきてもらったりもする。俺はそんな生活で満足しているのだ。
 それに今回の依頼、俺としては珍しい植物が見られるかも知れないという事にも増して、あのお屋敷のご主人にも興味があった。美果様か…どんな人なんだろう。


 次の日、早速例のお屋敷を訪ねた。大きな門扉を見上げ、脇にあった呼び鈴を怖々と押した。ほんの数秒後、いきなり現れた大きな犬が俺に向かって吠え立てた。立派な黒いドーベルマンだ。
「お前、格好いいな。ほんもの、初めて見たぞ。」
俺はしゃがみこんでその犬と目線を合わせて話しかけた。俺、植物に限らず動物も結構好きなんだ。だけどやっぱりこれも書物の知識だ。ドーベルマンなんて日本にいたのか、という感じだ。
 俺の態度に警戒を解いたのか、尻尾を振りながら俺に近づいてきた。間近で見ると、かなり大きい。小さな子供の背丈位の体高があるんじゃないだろうか。精悍で、まるで警備兵のようだ。
「ご主人様のお守りがお前の仕事か?立派にこなしてるんだろうなぁ。」
暢気に犬との会話を楽しんでいたら、いつの間にか門扉の近くに人が居て、俺はちょっと吃驚した。
「あ、あの俺、じゃなくて私はご依頼頂いた佐伯造園の者です。今日はお見積もりを取らせて頂こうと思って。」
焦って立ち上がり、言葉を発した。そこにいたのは黒い背広に身を包んだ、中年の男の人だった。
「はい、伺っております。どうぞお入り下さい。」
折り目正しくお辞儀をされて、これまた焦る。そんな扱い、受けた事がない。たかが庭師なんか御座なりに案内されて、早く仕事を終わらせろと暗に言われて仕舞いだ。
「あ、はいっ、失礼します!」
俺も深々とお辞儀をして開けられた門を潜った。



 「………凄い…」
思わず口をついたのはそんな言葉。広い庭には、見事に育った樹木達が青々と茂っている。確かに手入れは大分前からしていないようだ。まあ、住んでもいなかったみたいだし。このお屋敷で人を見た記憶が無い。嬉々として庭を眺めていると、
「ここから裏庭へと通じております。そちらに温室があるのですが、そこに関しましては、決してお手を触れませんようにお願い致します。それ以外の場所、植物につきましては、全て佐伯造園様の仰る通りにさせて頂きます。」
案内をしてくれている男性は穏やかな口調でそう述べた。
「申し遅れました。わたくし、当家の使用人、高橋で御座います。何か御座いましたら、わたくしに仰って下さいませ。」
「は、はいっ!あの、俺は佐伯蒼太(さえきそうた)と言います。よろしくお願いしますっ。」
慌てて頭を下げて挨拶を返した。
「あ、一人で大丈夫なんで、高橋さんも仕事に戻って下さい。裏庭見終わったら玄関から声、掛けますから。」
「左様で御座いますか。それではお言葉に甘えて失礼致します。ゆっくりと御覧になって下さい。」
俺に一礼すると高橋さんは来た道を戻って行った。


 数もさることながら、種類も本当に様々だ。躑躅(つつじ)、金木犀(きんもくせい)、椿といった一般的なものから、猫柳(ねこやなぎ)、合歓木(ねむのき)、菩提樹(ぼだいじゅ)なんてものもある。でも最初に植樹した人間はそれなりに知識があったようだ。それぞれの樹の間にはそれらの育ちに見合った間隔が設けられていて、決して窮屈そうでは無い。
 感心しながら裏庭を探索するように歩いていると、温室が見えた。
(これが言ってた温室か…。)
これもまた素晴らしい。お屋敷に見合う、西洋風の温室だ。硝子張りで二十畳程の広さだろうか。側面は曇り硝子になっていて、中の様子は伺う事は出来なかった。
(ここは何もしなくていいって言われたよな。)
心の中でそう呟いて、そこを回り込んで裏庭を抜けていこうとすると、さっきのドーベルマンが温室の入り口の前で大人しく座っていた。
「お、また会ったな。しばらく厄介になるから、俺の事、覚えてくれよ。」
話しかけながら近づいていくと、そこは温室の扉が見えた。ひょっとして、ここのご主人様がこの中に…。

 「誰か居るのですか。」
突如、誰何の声が聞こえた。温室の中からのようだった。
「すみませんっ!お邪魔しましたか?佐伯造園から来た者で、今日は剪定のお見積もりをさせて頂いてますっ、失礼します!」
見えるはずのない相手に向かって慌てて頭を下げて、そこを立ち去ろうとすると温室の扉がゆっくりと開いた。

 そこから現れたのは、これまたこのお屋敷に相応しい、西洋風な、いや西洋人のような相好の人物だった。
(…………天使様みたいだ……。)
俺の第一印象はこれ。薄茶の髪に青みがかった灰色の瞳。とても美しい人だ、でも弱々しいとか女性的というのではない、まるで戦天使のような気高さと力強さを感じさせる。以前書物で見た、基督教の聖書の場面を描いた絵を思い出させる。
 見惚れたまま、動けなくなってしまった。中途半端に上げかけた頭もそのままに、きっと情けなくぽかんと口を開けていた事だろう。
『ワンっ』
犬の一吠えで我に返った。不思議そうな顔をして俺の顔を下から覗き込んでいた。
 それで正気に戻った俺は、あたふたと深々と頭を下げ直し、逃げるように素早く立ち去ろうとした…んだけど、心臓が破裂しそうな程、音を立てているし、足は縺れるしで何もない所で俺は躓いて、転んでしまったのだ。ああ、何て恥ずかしいんだ、俺は…。