百花繚乱 〜桃花〜 2




 あまりに情けない俺を心配したのか、犬は頬に顔を寄せて鼻を鳴らしている。途端に腕を掴まれたかと思ったら、ふわりと体が浮くような感覚がした。思ったよりも力強い腕で立ち上がらせてもらっていた。そうしてかの天使様は俺の前に膝をついて、まるで子供にするように服についた泥を払ってくれている。
「すっ、すみませんっ!大丈夫です、平気ですっ!!」
そんな事よりも…
「そんな事したら天使様が汚れてしまいますっ!!!!」
「……天使…様?」
しまったと思った時には遅かった。心の中で思った言葉が思わず口をついてしまっていた。俺の顔は真っ赤になっている事だろう。それがとてつもなく恥ずかしくて、必死になってそこから走り出した。
「あの、そのっすみませんでしたっ!!!!!」
と捨て台詞のように残して。

 俺はそのままお屋敷を飛び出して、事もあろうか家に逃げ帰ってしまった。ああ、どうしよう。何も言わずに帰ってきてしまったのだ。明日から一体どんな顔をして伺えばいいんだ…。
 それにしてもあの天使様は一体誰だったんだろう。美果様の旦那様とか。外国の方なのか、いやでも日本語を口にしていたようだし。それにしても美しい人だった。男の人だったけれど、美しいという言葉が本当にぴったりと当て嵌まる。思い出しただけでも胸が高鳴るような、そんな気持ちが湧いてくる。書物で見た、俺の憧れの天使様。それをそっくりそのまま体現したような人。



 悩んだ所で朝は無常にも訪れる。事の次第を家の者に告げる訳にもいかず、のろのろと支度をして出掛けてはきたものの、門の前で右往左往してしまう。
「どうぞお入りください、佐伯様。」
突然声を掛けられてはっと顔を上げると、高橋さんが門を開けて俺を促していた。
「あっ……昨日はとんだ失礼をしました…。あの………。」
言葉を発したものの、何を言っていいのやら見当が付かない。
「美果様からあまり遅いから迎えにあがれと仰せつかりまして、様子を見に上がろうと思っていた所で御座いますよ。」
にこやかな笑顔で返されて、一瞬呆けてしまった。とりあえず良かった、仕事の方は大丈夫なようだ。でもそれだけで済まされる訳がない。恐る恐る口にする。
「…実は昨日、お屋敷の方に失礼な事を言ってしまって…。きっと気を悪くされてるんじゃないかと……。私ではなく、他の者を寄越した方がいいかも知れません。」
「いえいえ、美果様は是非とも貴方様にとの仰せですので。昨日、お会いになられたんでしょう。驚かせてしまったようで申し訳無いと申しておりました。」
高橋さんはそう口にした。昨日会った…という事は……
「ええっ!!あっ、あれが美果様ですかっっ!!!俺、てっきり美果様は女性の方だとばっかり…。」
「お名前で勘違いされておりましたか?よくそういう方がいらっしゃるのです。」
ああ、俺はなんという失礼を美果様に働いてしまったんだろう。本当に怒ってらっしゃらないのか、俺は不安で仕方が無かったが、仕事はきちんとこなさなければならない。俺の事は嫌ってくれてもいい、せめてお庭だけでも美果様のお気に召すようにしなければ。


 「お庭の木、全て拝見させて頂きました。ひとまず一月頂けますか?その後はその季節にあった時にお伺いして剪定していきたいと。何せ種類が多いですから、今の時期の剪定に向かない木や花もありまして。」
昨日途中になってしまった庭の植物の選別を終えて、高橋さんにそう告げた。
「お引き受け頂けて何よりです。以前にも幾つか造園に依頼した事があったのですが、植物の種類が分からないものが多いからと断られてしまっておりまして。助かりました。」
「確かにこの種類ですから。初めて目にするものもかなりありましたけど、何とか出来ると思います。精一杯努力しますので、やらせて下さい、よろしくお願いします。」
そう、頑張らなければ。美果様の為にも。決意も新たに頭を下げた。
 そうしているとどこからかあの犬が現れた。それを見た高橋さんは俺に笑いかける。
「そろそろ時間ですね。どうぞ佐伯様もご一緒に。ガブリエルが迎えに来たようです。」
「時間?がぶり…える??」
「ええ、お茶をお出しする時間です。ガブリエルは美果様の愛犬なのですよ。美果様のお側から離れる事はあまり無いのですが、どうやら佐伯様を連れてくるように美果様から言われたようです。」



 案内された屋敷の中は、土間を上がったすぐそこが居間の我が家とは雲泥の差、いや別世界といっていい。屋敷の中を見てしきりに感心している俺を見て、高橋さんが笑っている。はたと気付く、こんなじろじろと見るなんて失礼に当たるし、貧乏人丸出しじゃないか。
「すみません…。」
蚊の鳴くような声で謝罪を述べて、大人しく高橋さんについていく。
「構いませんよ。子供のようでらっしゃると微笑ましくて、つい。」
それは…尚更すみませんと言いたくなってしまう。
「さ、どうぞ、こちらへお入りになって下さい。すぐにお茶の支度を致しますから。美果様のお向かいの席へ。」


 開けられた扉の先はサロンのような部屋だった。光が燦々と差し込む窓際に置かれた円卓の椅子に腰掛けた背中が目に入る。
 その姿を目にした途端、心臓が音を立てて跳ねた。光を受ける美しい姿はやはり天使を思い起こさせる。動けずにいた俺を促したのは、今度はガブリエルだった。ズボンの裾を咥え、軽く引っ張っている。早く席に着けと言わんばかりだ。ぎくしゃくと歩を進めると美果様がこちらをゆっくりと振り返った。
「どうぞお掛けなさい。」
凛とした透き通った声音。姿そのままに声も美しかった。緊張が高まる。
「は、はいっ!」
裏返った声で返事をし、ぎこちなく向かいの椅子に腰を下ろした。

 とにかく、何か話さなければ…。
「あのっ、これから通わせて頂きます、佐伯蒼太と申します、あの、あのっ…ふつつか者ですが、よろしくお願いしますっっ!!!」
まともに顔を見られないまま一息に言い切り、がばっと頭を下げる。一瞬の間のあと、くすくすと笑い声が聞こえた。その声に誘われるように顔を上げると、高橋さんが銀の盆の上に茶器を携えて給仕をしていた。
「佐伯様、美果様の所にお嫁にいらっしゃるのですか?」
楽しそうに言われて、またしても自分の失言に気付いた。どうしてこう恥ずかしい所ばかり美果様の前で見せてしまうんだ。
「高橋、からかうものじゃないよ。」
「申し訳御座いません、失礼を致しました、佐伯様。どうぞゆっくりお茶を召し上がって下さい。それでは。」
高橋さんは折り目正しく美果様にお辞儀をし、俺に笑いかけてその場を離れていった。