百花繚乱 〜桃花〜 3




 これ以上余計な事を言ってはいけないと、香ばしい芳香を立ち上らせる珈琲茶碗へと手を伸ばす。でも今は緊張のせいか、味が分からなかった。苦いものはあまり得意ではないんだけれど。無言のままの時間が過ぎていく。色々な言葉がぐるぐると頭の中を回る。ひとまずここはやはり庭の事を…。
「あの、お庭見ました。こんなに沢山の木や花があるのに、ゆったりとしていて、その…とっても素敵なお庭ですね。」
 美果様からの返答は無い。でも、こちらをじっと見つめている。決して話を聞いていない訳ではないらしい。美果様の視線で俺の顔は赤くなる。それでも何とか言葉を探し、続ける。
「最初にお庭を造られた方の愛情を感じます。ここの植物達は幸せですね。俺の技術でちゃんと、もっと幸せにしてあげられるかどうか分かりませんけど、頑張ります。」
今さっきまで眺めていた木々を思い出すと自然と笑顔になった。春夏秋冬、この庭で花が尽きる事は無いだろう。今この春を目前にした季節には椿が終わりを告げ、梅が咲き誇っていた。この後には裏庭にあった桃や櫻の樹が花をつけるだろう。まずはその辺りから手をつけようと思っている。花壇の花を植え替えながら、花を咲かせる前に虫がついていないか、花を付けるに見合う枝振りに少し手を加えたりして。

「……庭は母の手によるものです。」
ぽつりと美果様が口にした。特にこちらに聞かせるという訳では無く、何とはなしに漏らした言葉という感じだった。それでも返事をしてもらえた事が嬉しくて、それだけで心が軽くなる。
「そうですか。ご母堂様は植物が好きでらっしゃるんですね。そういえば、ご家族の方は…?」
「母も父も既に亡くなっています。妻もいませんからこの屋敷には私と高橋だけです。」
俺は余計な事を言ってしまったと思ったが、美果様は淡々と言葉にして、特に変化は無かった。その言葉が分かったかのように、美果様の足元に蹲っていたガブリエルが小さく鼻を鳴らした。
「ああ、そうですね、ガブリエルもいます。」
そう口にした美果様は微笑みながらガブリエルの頭を撫でた。

   初めて見た美果様の笑顔に俺は心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受けた。何て綺麗に微笑むんだろうと。まさしく天使の微笑みだ。それと同時に寂しくなった。俺にもいつかこんな風に笑って下さるんだろうか。俺にはそんな日がいつまでも来ない気がしてしまう…。
そんな事を考えてしまう自分に耐えられずにその場を離れる口実を述べた。
「……あの、そろそろ仕事に戻ります…。本当にすみませんでした…。」
席を立ち、目を合わせないようにして部屋を後にした。


 その日一日、暗い気持ちのまま仕事を何とかこなした。どう振舞えば美果様に気に入ってもらえるのか、そればかりを考えながら。

 毎日のお茶は美果様と一緒に頂く事になった。それも美果様の意向だと言われた。高橋さんはいつもにこやかに俺に接してくれるし、ガブリエルもすっかり俺を覚えてくれて、尻尾を振って出迎えてくれるけど、美果様は相変わらずだ。高橋さんとは普通に話しておられるけど、俺にはあまり話し掛けてくれないし、俺の方も毎日緊張で上手く喋れないでいる。話す事と言えば、今日はあの木に手を入れる予定ですとか、もうすぐあの花が咲きますとか、そんな他愛も無い事だけ。俺はこうやって毎日美果様の姿が見られるだけで幸せだと思ってしまう。でももっと上手く話せたら、美果様が俺に笑いかけてくれたら、そうしたらもっと嬉しいのだけど。
こんなつまらない人間とお茶を楽しめる訳も無いと思う。それでも高橋さんは言うのだ。
「美果様は佐伯様を気に入っていらっしゃるようですね。」
どこをどう見ればそうなるのか、俺にはさっぱり分からない。曰く、美果様は人嫌いで自分以外の人間とはほとんど口をお聞きにならないですし、お会いにもなりません、との事なのだ。でもただ美果様はじっと俺を見つめるばかりで。その瞳が何を物語っているのか、俺には掴めずにいた。


 お屋敷に通い始めて二週間が経った。お茶の時間はほぼ沈黙で過ごすのが常であって。午後になってから、裏庭へ向かった。桃の花がそろそろ蕾を膨らませるだろうから、見頃の時に綺麗に花をつけるように剪定するつもりだ。梯子を掛けて木に登ると、そこから温室が見えた。側面は曇り硝子だったが、屋根は一部普通の硝子が嵌められていて、中を窺う事が出来た。はっきりと種類は分からないが、薔薇が多いようだ。
(いつかあの中も見せてもらえるといいな。)
そんな事を思いつつも様子を見ながら慎重に枝を下ろしていく。視界の端に入っていた温室の中に人影を認めた気がして、そちらに目をやった。
 そこには、美果様がいらした。何か大きな本のようなものを手にしている。いや、あれは写生をしているのだろうか。大振りの真紅の薔薇の前に腰を下ろし、鉛筆を走らせ始めた。美しい薔薇に囲まれている美果様はやっぱり美しくて、でもどの薔薇よりも美果様が一番で。
 俺の視線に気付くはずはないのだけれど、ふと美果様が此方を見上げた。見惚れていた俺とは当然の如く、ばっちりと目が合った。
 その瞬間だった。何か短い言葉を発したらしい口の動きが見えて、そして美果様が微笑んだのだ。ふんわりと、本当に優しく。
 初めて俺に向けられた笑顔に身体中の血が沸騰したような嬉しさと興奮と幸せが襲ってきた。ああ、俺は何て幸せ者なんだろう、美果様に微笑み掛けてもらえるなんて…。沸いた頭で思った所で、手にしていた鋸を取り落としそうになった。それにはたと気付き、握り直そうと手を伸ばした瞬間、俺は体勢を崩した。視界が逆転する。空と桃の枝が見えてから、俺の視界は闇に包まれた。