百花繚乱 〜桃花〜 4




 「……蒼太…。」
遠くから名前を呼ばれているみたいだ。その声はあまり聞き馴染みのある声ではなくて、でもとても美しい声で。前髪を優しく梳きあげるような感触がする。その手も気持ち良くて。額に柔らかい温もり。どこまでも優しく、俺を癒すような。

 俺は薄らと目を開いた。ぼんやりとした視界の中に見えたのは青みがかった灰色の瞳。
 「………みか…さま…?」
焦点を何とか合わせた視線の先には心配そうな様子で俺の顔を覗き込んでいる美果様が見えた。ああ、今日は特別良い日だ、色んな表情の美果様が見られるなんて。
「目を覚まされましたか、良かったです。」
静かに扉を開けて入って来た高橋さんが言う。俺は一体…。
「美果様が血相を変えて佐伯様を抱えて来られた時はどうされたのかと。」
寝台の枕元に水差しを置きながらゆっくりと落ち着かせるような口調で高橋さんは続ける。
「木から落ちられたのですよ。そのまま気を失ってしまわれたようで。十五分程でしょうか。お医者様も呼んでありますから、詳しく診てもらいましょう。」
それを聞いてまず思ったのは、美果様の血相を変えた姿というのが想像出来ない事だった。ただ説明を聞いている間に段々と思考がはっきりとしてくる。
そうか、美果様の笑顔を見て、見惚れてしまって、それで…。自分の仕出かした失態にまずは反省する。それから今の現状を認識しようとする。

 真っ先に考えが及んだのは勿論、美果様の事だった。俺の寝かされている寝台の傍らに膝をつき、俺の顔を覗き込んでいる。
「美果様っ!俺なんかの為にそんなことっ………!!!」
はっきりとその姿を目にして、俺は思わず大きな声でそう言いながら、上体を勢いよく起き上がらせようとしたけれど、それは叶わなかった。背中に思ったよりも強い痛みが走ったのもあったけれど、それよりも…。
「駄目です、動いては。」
いなす様な強い声と共に俺は寝台へと縫いとめられるように抱き締められた。驚きのあまりに身動きの出来なくなった俺を認めると、美果様はしばらくして抱き留めていた腕をそっと解いた。
「高橋、下がりなさい。」
俺を視線で捕らえたまま美果様は言った。高橋さんはそれにならって失礼致します、といつものように姿勢よく礼をして部屋を後にした。


 美果様と二人きり。お茶の時間の気まずい空気を思い出して、俺は緊張してしまう。
「…あれ程驚いたのは初めてです。」
ぽつりと漏らされた呟き。いつも真っ直ぐに向けられている瞳は、今は俺に向けられていなくて。言われた言葉に反射的に俺は謝った。
「本当に申し訳ありませんでした。こんなご迷惑を掛けてしまって……。それと、有難う御座いました。俺、しばらくしたら家に帰らせてもらってもいいですか?明日からは別の者を寄越しますから…。」
この庭の全てを手掛けられないのはとても心残りだけれど、この体の状態だとしばらく仕事は無理だろう。それに、何よりも美果様に会えなくなってしまう事が寂しくて、切なくて、思わず涙が溢れてきそうになる。
「………本当に、申し訳…ありません……。」
涙を堪えたせいで搾り出すような小さな声しか出せなかった。俯いてしまった俺の頬を優しく掬い上げる手があった。両頬を包み込むようにして添えられた、温かい手。そのあまりの優しさに堪えていた涙が溢れそうになる。
「人との関わり方を忘れてしまっていたようです。どうしていいか…私にも分からなくなっていて……。」 言葉を一つ一つ選ぶように口にしていく。思わず目を見張って美果様を見つめる、その俺の目からは涙が零れた。それをそっと指で拭ってくれる。
「こうやって泣かせてしまう…。私は……笑った顔が見たいのです。」
「………それは…俺の方です。今日、美果様に微笑み掛けてもらって、それで…本当に嬉しかったんです。幸せな気持ちに、なりました…。」
目を伏せると次から次へと溢れる涙が頬を伝って零れてしまう。でもそれを飽く事無く、塞き止めようとするように拭ってくれる指が優しくて、余計に泣けてきてしまう。
 「それは、どうして?」
小首を傾げる様にして訊かれる。まるで泣きじゃくる子供をあやす様な仕草だった。
「それは……美果様が…美果様の事が、好きだから…です………。」
自然と口をついた言葉に自分が納得した。そうか、俺はずっと美果様の事が好きだったんだ。だから会いたくて、話をしたくて、笑い掛けて欲しくて。でも好きだからこそ、一緒に居て退屈に思われていたら嫌だ、迷惑を掛けたくないと思いもして。
 美果様は俺の言葉に驚いたように手を止めた。こんな告白めいた事を言ってしまって、きっと是っきりになってしまうんだろう。自分の気持ちに気付いたその日が失恋の日だなんて、俺らしい…。
「…そう……そうでしたね…。これが、誰かを愛おしいと思う、そういう気持ちでしたね…。」
しばらく考え込んでいた様子だった美果様はふと呟いて、止めていた手で俺の前髪を掻き上げた。
「私も好きですよ、蒼太…。」
額に唇を寄せながら囁かれた言葉。それは夢現で聞いた俺の名前を呼ぶ声と柔らかい温もりそのままで。
「えっ……?」
一瞬何を言われたのか理解出来なかった。美果様が、俺を好き?そんな訳が…。呆然と見つめる俺の目は美しい瞳に捕らえられた。
「愛しています。」
真正面から俺を見据えたまま告げられた。
「…うそ……そんな…んっ………。」
意味の無い言葉を発した俺の唇はそっと塞がれた。口付けされたのだと気付いた時には俺の顔は真っ赤になっていて。ゆっくりと離された唇がまた別の言葉を俺に告げる。
「これでも、信じてもらえませんか…?」
聞き間違いでは無い。この早鐘を打つような心臓の音。まるで熱でも出たかのような頬の熱さ。そして、唇に触れた感触。美果様は少し眉尻を下げて、戸惑った表情で俺を窺っている。こんな顔をして俺なんかの事を気遣うように見る美果様が何だかおかしくて…可愛らしくて。

 「…今日、桃の木の枝をおろしていたんです。」
顔はまだ赤いままで唐突に話題を変えた。
「ええ、お茶の時に言ってましたね。見頃になる前に枝振りを良くすると。」
ちゃんと俺の話を聞いてくれていた事に胸が温かくなる。
「美果様…桃の花の花言葉、知ってますか?」
「……いいえ。」
今の俺に正にぴったりの言葉。美果様の瞳を真っ直ぐに見つめたまま俺はその花言葉を口にした。
「『わたしはあなたの虜』…。」
一瞬目を見開いて俺を見た後、美果様はにっこりと微笑んだ。




百花繚乱〜桃花〜いかがでしたでしょうか。花言葉はきちんと調べましたよ、出まかせじゃないですよ。
(back ground:『NEO HIMEISM』様)


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