緋薔薇の寝室 1




 「お願いしたい事があるのですが。」
美果様はおもむろに俺に問い掛けた。新緑の美しい庭を眺められるサロンのような居間でのいつもの午後のお茶の時間。開け放たれた窓からは心地良い風が入り、薄い紗のカーテンが軽く踊る。
「はい、何でしょう?俺に出来る事なら…。」
俺は少し身を乗り出すようにして美果様のお願いというのを聞く姿勢を取ると、お茶の時間の後で少し付き合って下さい、と言われた。



 連れて来られたのは、裏庭にある温室。俺が初めて美果様と出会った場所だ。扉を開けて、俺に中に入るように促す。
「……いいんですか?」
ためらいがちに尋ねると、美果様はにっこりと微笑んで俺の肩を抱いて温室の中へと入る。
 足を踏み入れると、ふわりと芳醇な薔薇の香りが鼻腔を擽る。赤、白、黄、桃…野薔薇のような小振りのものから大輪のものまで、様々な品種の薔薇が見事に咲き誇っている。
「すごい…ですね。」
それだけを口にするのが精一杯な程の見事な光景だ。
「ここの薔薇の世話も蒼太にお願いしたいのです。」
間近で聞こえた美果様の声に思わず顔を上げると、目の前には微笑んでいる美果様の顔があった。思いの他近いその距離に、俺は恥ずかしくなって少し身を引いた。
 背景には美しい薔薇の群れ。しかし、その中で佇む美果様は荘厳で、咲き誇る薔薇よりも更に美しい。初めて出会った時に天使のようだと思ったその気持ちは、今でも変わる事は無い。それ程に美果様の姿は俺を魅了してやまないのだ。
「お願い出来ますか?」
美果様は少し小首を傾げる様にして俺に伺いをたてるように言った。
 薔薇にも美果様にも見惚れていた俺ははっとして、勿論です、と答える。
「お世話させて頂けるなら、俺、こんなに嬉しい事は無いです。」
 ここは美果様の御母堂様が大切にされていた場所で、すなわちそれは美果様にとっても特別な場所で、特別な花達だという事になる。ここには誰も立ち入らせない様に仰せつかっている、と高橋さんが言っていたのだ。いつも足元に付いて回っている愛犬のガブリエルでさえ、この温室の中には入れない。最初に西園寺家を訪れた時も、ここだけには決して足を踏み入れないよう念を押された事を覚えている。
 胸が熱くなる。嬉しい。俺をここに入れてくれた事も、ましてやここの薔薇に俺が手を入れてもいいと許してくれた事も。
「ここにある薔薇に関しては、私も多少の知識があります。しばらくここでデッサンを…ああ、意匠の元を描きますから、蒼太はここの薔薇を見てもらえますか?」
目的の薔薇だろう場所の近くに腰を下ろし、小脇に抱えていた画帳を広げて薔薇をじっと見つめては、おもむろに描き出した。俺も仕事に掛からなければと気持ちを切り替えた。

 英国ではごく一般的に庭園を彩る花として薔薇はよく用いられる。美果様にとっても、ご母堂様にとっても馴染みの深い花だろう。その美しさ故に長い年月をかけて品種改良の研究を続ける者も決して少なくない。一口に薔薇と言ってもこれだけ様々な色や形があるのはそのせいだ。幾種類もある薔薇の株を一つ一つ丹念に見て回る。葉に虫はついていないか、栄養は行き届いているか、確認をしながら剪定の必要なものには手を入れていく。ぱちんと枝を切る音と美果様が鉛筆を走らせる音が温室にこだまするように響く。夏を目前にした温室の中は一際薔薇の香りが充満している。


 一つの薔薇の枝を手に取ったまま、ふと作業の手を止めて美果様の様子を伺う。
 目を奪われる程の神々しいまでの美しさ。慈しむような眼差しで薔薇を見つめ、暫くすると画帳へと視線を落とし、木炭を走らせる。色とりどりの薔薇を背にしていると、肌の白さも薄茶の髪も際立って見える。少し前屈みになっているその背にまるで大きな翼が見えるようだ。その姿に魅入られた俺は、惚けた様に見つめてしまう。
 「いっ………。」
意識を奪われてしまっていた俺は、自分の手に走った微かな痛みで我に返った。どうやら手にしていた薔薇の棘で指を切ってしまったらしい。零れた声に美果様はこちらに顔を上げた。
「どうしたのですか?」
言いながら、美果様は画帳をたたみ、地面へ置くと俺の方へとやってきた。
「いえ、何でもありませんから。」
邪魔をしてしまった事を申し訳無く思い、大丈夫だと告げたけれど美果様は俺の手を取り、まじまじと見ている。

 「……ぁ…。」
血を滲ませた人差し指を口に含まれて、思わず声が漏れた。美果様の舌が俺の傷をぞろりと嘗め上げる。
「美果様…あの……。」
どうしたらいいのか分からず、手を引こうとしたが俺の指を口に含んだまま美果様が俺を見ていて、心臓が音を立てた。優しく傷を吸われ、その甘やかな刺激に俺は動けなくなってしまう。
「…っ……美果、様…あ……。」
美果様の視線に、舌に煽られる。そのまま腰を抱き寄せられ、薔薇の香りと共に美果様の匂いが鼻腔を掠め、俺はその官能的な香りに酔ってしまったように美果様の体にしがみ付く。
「……ちゃんと手当てしなければ駄目ですよ…。」
美果様はそっと離した唇を俺の耳元へと近付け、囁く。ぞくりと背筋が粟立つ。
「今日はこの薔薇を寝室に飾ってくれますか?」
俺が怪我をした緋色の薔薇にちらと目線を送ってから、美果様は俺の頬を慰撫するようにして言った。
「……はい。」
俺にはそう答えるより他無かった。