笑顔の先にあるものは 1





 「僕が君の研修期間中のパートナー、緒川礼(おがわれい)だよ、よろしく、楠隼人(くすのきはやと)君。」
そう言って俺の前に差し出された手とニコニコと人懐っこい笑顔。それが初めての出会いだった。

   この会社に入社して、早3ヶ月。俺は営業マンとしての道を着実に歩み始めていた。俺のパートナーになった緒川さんは、同じ営業1課の若手実力ナンバー1と言われる凄い人だ。でも本人はさほど気にしていないのか、いつも暢気で、面倒見が良くて、新入社員の俺にもよく話し掛けてくれるし、お昼も誘ってくれる。
「あ〜、何か調子乗らないね〜。楠君、休憩しよ、休憩。」

 お昼から戻って1時間しか経って無いのにそんな事を言って、俺をドトールへ連れ出す、そんな人だけどさすがは営業マン、やる時は誰よりも遅くまで残業してオリエンテーション用の資料を完璧に作り上げ、上司連中だけでなく取引先までも関心させる。
かく言う俺はというと、どうして営業を選んだんだと同期にも言われた程の口下手、唯一の取り柄は中学から大学まで野球部に所属したという体力。それと体育会系のノリと上下関係はしっかりと身についている。
「俺の取り柄ってその位なんです・・・。」
と伝えた時、緒川さんはやっぱりニコニコ顔で
「いいじゃん、凄いね。社会人には大切な事だよ〜、特に体力はね。何事も身体が資本だから。ずっと野球してたんだ、どうりでガタイがいい訳だ。僕なんか部活とか適当にサボってたもんなぁ、あはは。」


 俺、結構人見知りな方だけど、緒川さんは最初から緊張感を与えずにいてくれたし、そんな緒川さんの周りにはいつも色んな人が集まっていて、おかげで会社の他の人たちとも早く馴染めた。
 「楠君はほんと新入社員って感じよね。緒川君は最初から慣れ慣れしかったもの。」
「心外ですね、高橋せんぱい。僕だって入社当時はこんな風に初々しかったじゃないですか〜。」
総務課の美人で仕事が出来て近寄り難いと評判の高橋さんも、緒川さんには気軽に声を掛けてくるし、緒川さんも物怖じしない。今も俺の肩をぽんぽん叩きながら、平然と言い返してるし。
「この人からは仕事のやり方だけ覚えてね、楠君。何もこのおちゃらけまで身につける必要無いんだから。会社の事で困った事あったらいつでも相談に来てね。緒川君じゃあてにならないでしょ?」
「は、はい・・・ありがとうございます。」

 あんまりだな〜、と言いながら緒川さんは苦笑した。ああ、なんか大人なやり取りだ。余裕があるというか、俺なんか女の人と話すだけでも緊張するのに。

 緒川さんは始終こんな調子だけど、俺は一つ気になっている事があった。ここ最近、緒川さんが頻繁に眼鏡を掛けてきている事だ。初めて見た時に、
「あれ、緒川さんいつもはコンタクトだったんですか?」
と尋ねた事があったんだけど、
「うん、まあね〜。」
と何となくはぐらかされた感じの返事をされた。
 それだけなら俺もそこまで気にならなったけど、何だか眼鏡の時の緒川さんはちょっといつもと違う、気がする・・・。いつもみたいに軽口も叩くし、よく笑うけどふと真顔に戻った瞬間、寂しそうな顔をしている、と思う・・・。俺の気のせいかもしれないけど。



 「楠君、ありがとね、こんな遅くまで残業付き合ってくれちゃって。もう大丈夫だよ〜。あと30分位で上がれるから、お先にどうぞ。」
どうしても今日中に仕上げたい資料があるからと残業を申し出ていた緒川さんを手伝うという事で一緒に残業をしていた日の事だった。自席のパソコンの前から顔だけこっちに向けて笑顔で俺に言う緒川さんは、今日も眼鏡を掛けていた。
「あと30分で、って言うなら二人でやれば15分で終わりますか?」
そう答えた俺に、うまい事言うね、とちょっと困った顔をしながら緒川さんは頭を掻いた。

 「う〜んと、それじゃあ二人でちゃっちゃと切り上げて飲みにでも行こうか。明日休みだしね〜。そうだ、そうしよう!じゃ、これのコピー12部お願い。」
「はい!分かりました。」
邪険に追い返されなかった事に何だか酷く安心した。俺は何となく緒川さんをここに一人残して帰る事がすごくいけないような気がしていて、いつもの俺なら言えないような台詞を口走っていた。これは緒川さんのおかげだろうか。


 結局20分程で退社して、駅の近くの飲み屋に二人で入った。いつになく緒川さんのピッチが早い。もう既に生ビールをジョッキで5杯、日本酒の冷を3杯、今は梅酒のロックの3杯目を飲んでいる。
「そんなに飲んで大丈夫ですか?」
「う〜ん、だいじょうぶ〜。酔い潰れたら置いてってくれていいから〜。」
何度か飲み会で一緒になったけど、ここまで酔っている緒川さんは見た事がなかった。もう呂律もあやしい。ひょっとしたらこの状態なら・・・
「あの、俺ちょっと気になってる事があるんですけど・・・。」
「ん、なぁに?」

 俺は意を決して話を切り出した。
「緒川さん、最近よく眼鏡掛けてますよね、今日もですけど。何かいつもと違う感じがして。」
「・・・・・・いつもと・・ちがう?」
「ええ、うまく言えないんですけど、何か寂しそうって言うか、人を遠ざけてるようなと言うか・・・。」

 って、何だこの言い方・・・。自分のどうしようも無いボキャブラリーの無さに若干ヘコむ・・・。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・当たり・・・かなぁ・・。」
今さっきまでニコニコしながら機嫌良さそうにお酒をガンガン煽っていたのに、急に手が止まった。グラスを見つめたまま小さな声で緒川さんは言った。
「えっ・・・・。」
「楠くん、するどいねえ意外と。気付かれない自信、あったんだけどなぁ・・・。」
そう言ってテーブルに伏せる様にしながらも言葉を続ける。見た事の無い、痛々しい笑顔で。

 「昨日フラれちゃってね〜・・・。もう結構前からうまくいってなかったんだけど。眼鏡は僕の本心が見えないようにする道具みたいなもんだったんだ・・・。喧嘩とかしちゃうとさ、なんか引き摺っちゃったりするじゃない?・・・だから・・・・・・。たか・・し・・・・・・・。」