change you, change me 5




 帰省していた人間が多かったお盆が明けて、オフィスにはいつものざわつきが戻ってきた。来月からは半期のまとめ資料の作成等で少し忙しくなるだろう。早く帰れる時には仕事を切り上げるようにしてから、毎年この時期は夏バテ気味になり体調を崩す事が多いのだが、いたって快調だ。引っ越して通勤時間が短くなったのも影響しているのかも知れないが、何より『朝のあいさつ』が効いている気がする。
 彼と、吉高さんとの短いやりとりは俺の生活に取り込まれて、自然と馴染んでいた。たまにだが定時で仕事を上がれた時は、笑顔で髪を切っている吉高さんを見掛ける事もある。彼はいつでも、本当に楽しそうに働いている。そんな彼の姿を見ていると、自分も頑張ろうという意欲が湧くのだ。真っ暗な店の前では心の中でお疲れ様と呟いて、明日は会えるかもしれないと楽しみに思いながら通り過ぎる。

 今日は少しトラブルがあって、遅くなってしまった。最寄り駅に着いた時にはもうすぐ22時になろうとしていた。
 今夜は風がかなり強い。だからといって涼しいはずもなく、湿気のこもった空気が肌にまとわりついてくる。そういえば台風が接近していると朝のニュースでやっていたのを思い出す。
 そろそろ店の前にさしかかろうという所で自然と足取りがゆっくりになる。歩道に店からの灯りが漏れているように見えて、少し首を傾げた。もうこんな時間なのに吉高さんはまだ店にいるのだろうか。足早に近づいていくと奥のシャンプー台の辺りだけ照明がついていた。そこに二つの人影が見えて思わず数歩下がり、店の中の様子を窺った。
 人影の一つは吉高さん、向かい合わせでいるもう一人は若い男だ。客と話しこんでいる雰囲気ではない。男が一方的に話し、吉高さんは俯き加減で何かに耐えているかのように拳を握りしめている。男は吉高さんの様子を気にする風もなく、ゆったりとゼスチャーを交えて話している。暗くて表情は分からず、声も聞こえないが男のやけに馴れ馴れしい態度が癇に障る。
 突然男が吉高さんを抱き締めて、顔を近付けた。
 それが視界に入り、どくんと大きく心臓が波打った。今までに感じた事の無い衝動が体の奥底から突き上げてくる。体は熱くなるのに頭の芯は氷を詰め込まれたように冷えていく。
 急に強い風が吹き、我に返る。麻痺していた聴覚が一瞬にして戻ったような感覚だった。早くここを立ち去らねばいけない。そう思うのだが、体が上手く動かない。脳は動けと命令を出しているのに足を踏み出せない。
 ドアベルの音が耳に届いて、俺は弾かれたように顔を上げる。
「おっと、すみません。」
店から出てきた男が目の前にいた。突っ立っていた俺とぶつかりそうになって、思わず立ち止ったようだ。まだ20代前半だろうか、いかにも今時の若者だ。芸能関係の仕事をしていると言われても誰も疑わないだろうという程のきれいな顔をしている。一向に動き出す気配の無い俺に、ああ、と一人納得した様子で柔和な笑顔を見せた。
「ひょっとして見ちゃいました?でもゲイなんて別に珍しくもないでしょ、最近は。」
事もなげに言い放ち、笑顔は崩さない。その表情は作りものめいていて、なぜだか俺を苛立たせる。
「……失礼。」
一言だけ告げて男の横を通り過ぎる。
「バイバイ、お兄さん。」
男のどこか人をからかうような楽しげな声を背中で聞き流して、俺は早々に立ち去った。



 家に辿り着き、シャワーを浴びてもいつものペースが取り戻せずにいた。空腹なはずだが胸やけを起こしたように気分は悪いし、疲れているのに睡魔も襲ってこない。
 冷蔵庫を開けて目についた缶ビールを取り出してその場でプルトップを開けて一口あおった。いつもより苦く感じるのは気のせいか。
 このイライラの理由は何なんだ。
 ベッドに腰を下ろし、盛大な溜め息を零した。
 さっき見た光景が目の前をちらついて、どうにも落ち着かない。あの男が言っていた、男同士のキスシーンを見てしまったから、なんて単純なものではない。あの時、もし二人の間に甘い空気が流れていたならば、俺は多分吉高さんのプライベートを覗き見てしまったのを申し訳無く思っただけだろう。それでも知らない振りで挨拶をし、少しの会話を交わすのをこれからも普通に続けていけただろう。
 だが、二人のやりとりはどうやっても睦言を交わす恋人同士には見えなかった。吉高さんの握りしめられた拳は、一体何をこらえていたのか。暗くて表情までは見えなかったが、きっと俺の知っているあの笑顔では無かったに違いない。それを考えると無性にあの男に腹が立った。あのやたらときれいな顔をした、いけすかない男。
 雨も降り始めたようで、風とともに激しく窓を打つ雨音が時折大きく聞こえる。不規則なその音が余計に俺の心を波立たせる。温くなってしまったビールを飲み干し、ベッドに潜り込む。ようやく眠りに就いたのは午前3時を回ってからだった。

 台風は予想進路を変える事無く、関東地方は暴風域に入った。既に運休している路線もある。朝のニュース番組を横目に俺は身支度を整える。これでは出勤に時間が掛かるだろうし、振替輸送で来る連中は遅刻を余儀なくされるだろう。仕事場が比較的近い俺は、早めに社に着いておかなければならない。浅い眠りを貪っただけで、疲労は蓄積されたまま。気持ちを切り替えなければと思うのだが、胸にわだかまりが残ったままだ。
 吉高さんの笑顔を見られればこの気分も晴れるのかも知れない。
 そんな思いがふと頭をよぎった。

 それからしばらくは仕事に追われた。台風の影響で他の営業所の仕事がストップしてしまい、その日一日は電話とメールは引っ切り無し、部署を超えての対応も余儀なくされた。一段落ついた頃には月末処理が待っていた。
 あの日以来、タイミングが合わないのか、吉高さんの姿を見ていない。毎日のように、今日は会えるだろうかと期待しては落胆するの繰り返しだった。自分の休みの時にでも店に行けば顔を見られるだろうが、突然店を訪れて理由を訊かれてもどう答えていいのか分からない。吉高さんの事を気にすれば、どうしてもあの気に食わない男の事も思い出してしまい、苛立ちは募るばかりだ。
 そんな悶々とした日々を過ごしていたが、俺はある事を思いついた。





 台風が来ようと、どれだけ疲れていようと、何が起きても働かなくてはいけない。店の従業員は俺一人なのだから当然だ。お客さんと接している時はいつものように仕事に没頭出来るけど、一人になると途端にダメだ。
 その原因が圭介にあるのは自分でもイヤという程分かっている。それを考えたくなくて、店にいる時間が自然と短くなっていく。いつもなら夜の予約が入っていなくてもオープン時間までは必ず店を開けていたのに、今は一人でいる時間に耐えられず早々に切り上げてしまう日もある。いつまた圭介が急に現れるかも知れない、そんな強迫観念に駆られていた。
 当時の感情に振り回されないようにもっとしっかりしなければ、ちゃんと過去の自分と向き合わなければ。そう決意した時に思い浮かんだのは保坂さんの真っ直ぐに伸びた背筋だった。



 「ありがとうございました。」
「またお願いします。」
笑顔で今日最後の予約のお客さんを送り出した。時計を確認すると19時を少し過ぎた所だった。ラストの受け付けは19時半。
 あれから二週間が経過して俺はようやく自分を取り戻し始めていた。それでもまだ、店に一人でいる時は怖い。特に夜はお客が途切れた途端に不安になる。それを紛らわそうと片付けを始めた。カット面のカウンターをダスターで拭きながら俺はガラスの器に目を止める。今は鮮やかなブルーの花が活けてある。
 おととい、買い物に行ったスーパーの一角にある花屋で貰ったのだ。何気なく立ち止まって眺めていたら、捨てちゃうやつだから良かったら持っていって、と気のいいおばちゃんが声を掛けてくれた。トルコキキョウと手書きのポップがついたバケツから数本抜き取って、新聞紙で手際良く束ねてくれたのだった。くっきりとした色だが丸みのあるフォルムは愛嬌がある。
 それを見ていると何だかホッとするのだ。ゼリーを一緒に食べながら、色んな話をしてゆったりと流れた幸せな時間を思い出すと、落ち着きを取り戻せる。一人でいても大丈夫だと勇気づけられる。
 あれから保坂さんに会えていない。それは俺が店にいる時間を最低限にしているせいなのは分かっている。でもちょっと寂しいなんて、自分勝手に思ってしまう。



 ふいにドアベルが鳴って、俺は反射的に身構えてしまった。
「まだ大丈夫ですか?」
入口に立っていたのは保坂さんだった。俺は肩の力を抜いた。
 このタイミングは心臓に悪い。でも嬉しい。俺はダスターを手洗い用の洗面台に軽く放って、笑顔で答える。
「もちろんです!」

 シザーを入れる音がリズミカルに響く。ノッている時にはこの軽やかなテンポが乱れない。俺の気分をさらに上昇させたのは、保坂さんの「お任せで」の一言だ。願ってもない申し出は美容師としての資質を試される時でもあり、楽しいと思える瞬間でもある。
「あ……。」
鏡の前のカウンターに用意した雑誌に手を伸ばさずにいた保坂さんが小さく声を上げた。
「それ、このあいだご馳走になったゼリーの器を再利用してみたんです。お客さんにけっこう褒められるんですよ。」
一旦、手を止めて保坂さんの視線の先にあるトルコキキョウを指で軽く突いた。二人だけの秘密を共有したようで、何だかくすぐったいような気持ちになる。
「仕上げていくんで真っ直ぐ前見て下さいね。」
「あ、はい。」
すっと背筋が伸びて、しっかりと鏡を見た保坂さんに俺はくすりと笑みを零した。
 全体のバランスを確認してから席を移動してもらい、シャンプーに取り掛かる。以前にマッサージした時にも感じたが、かなり凝り固まっている。こめかみに親指の腹を当てて、ゆっくりと力を込めていく。
「痛くないですか?」
「はい…気持ちいいです。」
フェイスペーパー越しに聞こえた吐息交じりの声がセクシーでドキリとさせられる。慌てて気を取り直して念入りにマッサージをする。洗い流して軽くタオルドライをしてから再びカット台の椅子に戻ってもらう。ドライヤーを掛けながら、指の間を踊る髪の感触を楽しむ。
 クセはないがどちらかと言えば少し硬めの髪質だから、乾かしていくだけでトップのボリュームは出る。いちいちセットしなくてもくしさえ通せば、格好がつくスタイルだ。サイドとバックはかなり短めにカットしたから、乾かすのにそれ程時間は掛からなかった。最後に微調整をしてシザーをしまった。
(よし。うん、格好いい。)
満足のいく出来栄えに心の中で呟いた。自信を持って二つ折りの鏡を後ろからかざす。
「こんな感じでどうですか?」
「ありがとうございます……。」
鏡の中で目が合うと、保坂さんは視線をそらしてしまった。
「気に入りませんでしたか!?」
俺は慌てて鏡を閉じて、保坂さんの顔を直接覗きこんだ。
「いや、その………ここまで短くしたのが久し振りで、何だか恥ずかしくて……。」
視線を泳がせて、口ごもった保坂さんの耳の先がほんのりと赤くなっている。耳がすっきりと出るようにカットしたから、はっきりと分かる。
「すっごい似合ってます!!」
俺は拳を握り、力説してしまう。
「頭の形も耳の形も良くないとここまで短いスタイルはハマらないんです。その点、保坂さんはどっちもキレイだし、さっぱりとした清潔感がありつつも、項とかあごのラインが大人の男の色気を醸し出すというか。とにかく、格好いいんです!」
一気にまくし立てた俺にあっけにとられた顔で見つめていたが、
「そこまで褒めてもらえて光栄です。」
と、照れくさそうに微笑んでくれた。
 その笑顔に思わず見惚れてしまう。こんな素敵な人が恋人だったら、なんて自分の身の程に合わない想像をしてしまい、慌てて打ち消した。保坂さんはただのご近所さんで俺の身勝手で強引な勧誘にも付き合ってくれる、優しくて気遣いの出来る人だ。そんな人を俺なんかが好きになっていいはずがないんだ。