change you, change me 6




 少し痩せたような気がする。吉高さんはもともと線の細い印象があったが、華奢だと感じる程では無かったはずだ。それでも満面の笑顔で迎えられて、俺は安堵した。
 俺の髪を切る吉高さんを鏡越しに目で追う。無駄のない動きでくしとハサミをあやつる姿は真剣そのもので、仕事に対する熱意が伝わってくる。ふと目の端に鮮やかな色が飛び込んできた。ガラスの器に濃い青色の花が活けられている。夏らしい、はっきりとした色合いが涼しげだ。頭に浮かんだフレーズに知らずに声を漏らしていたようだ。
 吉高さんの腕がスッと伸びて、指先で軽くその花に触れた。Tシャツから伸びた腕の細さに一瞬ドキリとした。
 シャンプーのあと、乾かしてもらっている間もついつい腕や指先に目がいってしまう。自分の髪型がどうなっているかなんてほとんど気にしていなかった。ドライヤーの音が止まり、声を掛けられて初めてまともに鏡の中の自分を確認した。
 中途半端に耳に掛っていた髪はすっかり無くなり、適当に分けていた前髪も短くなっていた。見慣れない自分の顔にいたたまれず鏡越しの吉高さんの笑顔から目をそらし、何とか礼を口にしたが、今度は直接顔を覗き込まれてしまった。
 不安そうな顔で見つめられ、余計に気恥かしくなる。ここまで短くしたのは学生以来で、気持ちまでその頃に戻ってしまったかのように上手く言葉が出てこない。しかも大げさに褒められて、くすぐったいような誇らしいような、照れ臭い気持ちでいっぱいだ。
 お疲れ様でした、とケープを取る吉高さんの指がほんの少し首筋を掠めた時だった。

 ドアベルの音が響き、つられて俺も頭を巡らせて入口を見た。
「まだお客いたんだ。でも、もう終わったみたいだね。」
そのふてぶてしい声にも澄ました顔にも覚えがあった。間違いなく、あの時のあの男だ。俺を見るとニコリと笑った。非の打ちどころのない笑顔。だがそれは、ただ綺麗なだけでつくりもののようだ。吉高さんの笑顔のように人を和ませる温もりが感じられない。
俺は椅子から立ち上がり、吉高さんの様子を窺った。さっきまでの明るさはなりを潜め、血の気の引いた顔で入ってきた男を凝視している。薄く開いた唇が微かに震えているように見えるのは気のせいでは無いと思う。
「クローズの時間まで待ってたんだ。ゆっくり話がしたくてさ。」
俺の事などもう眼中に無いように吉高さんに近づいていく。
「なあ、友哉。あのこと、考えてくれた?」
「ちょ……待って…」
「放しなさい。」
男の手が肩に触れるとびくりと体を震わせた吉高さんを目にした途端、思わずその手首を掴んでしまった。あっさりと引いた男は俺の手を振り払い、いかにも面倒だと言いたげに俺見る。しばらくすると、
「あれ?ひょっとしてこの前のお兄さん、じゃない?先日はどうも。」
と、急に親しげな雰囲気になった。どうやら俺の事を思い出したらしい。
「見てたんですよね、この間。それなら分かると思うんですけど、俺と友哉はそういう関係なんで二人にさせてくれませんかね。」
「………何それ、どういうことだよ、圭介っ!」
弾かれたように吉高さんは男に詰め寄った。焦りと不安を滲ませて、必死な様子で訴える。
「だからさ、俺と友哉がキスしてんの見られちゃったんだよね。」
「…そん、な……」
呆然と俺を見た顔は真っ青だった。見開かれた目は今にも涙を零しそうな程に潤んでいる。よろよろと後ずさる吉高さんに今度は男が距離を詰めていく。
 俺はその前に立ちはだかった。吉高さんを守ってあげなければ、守りたいと自然と思った。義務感や同情心なんかじゃない。俺が望んでそうしたいのだ。吉高さんのこんな顔は見たくない。笑顔でいて欲しいのだ。いや、俺と一緒にいる事で笑顔になって欲しい。
 ああ、そうか。そういう事だったんだ。
「関係ない部外者はどいてくんないかな?」
「関係無くない。」
俺は即答した。勿論、どく気も無い。ニヤついた顔をしていた男は俺の反応に徐々に怒りを露わにする。
「何なの、アンタ。邪魔すんなって言ったの、分かんないのかよ。」
「嫌がっている相手に自分の言い分だけを通そうとする人間を見過ごせるほどお人好しでは無いつもりだ。」
「それ、俺のこと言ってんの?」
「自覚はあるのか。なおさら悪い。」
いつもの俺なら押し黙ってやり過ごしていただろう。だが、この男に覚えていた苛立ちの正体に気付いた今、引き下がるつもりは無い。
 俺の態度に業を煮やしたのか、男はいきなり胸倉を掴んできた。
「っんだと!いちいちムカつく言い方しやがって!!」
「圭介!!やめろよっ!!」
「本当の事だからそんなに腹を立てるんだろう?」
それでも口から出たのは相手を逆撫でするような台詞だった。吉高さんが声を上げたが、自分でも信じられないほど冷静になれない。目の前の男が許せない。
 手首を掴み返して振りほどこうとするが、お互い引かずに揉み合いになる。吉高さんが腕に縋りつき、止めに入ってきた所で俺は思わず力を緩めてしまった。その隙に思い切り突き飛ばされて、俺はこらえ切れずによろけて後ろの棚に手をついた。
 派手な音とともに俺は尻もちをつき、気が付けば服がぐっしょりと濡れていた。
「大丈夫ですかっっ!!?」
散らばったものには目もくれず、吉高さんがタオルをひっつかんで俺の横に膝をついた。
「あ……ああ、大丈夫です。」
驚いただけで特に痛む所も無い。ただ、シャツやスラックスはかなり広範囲に濡れてしまっていた。どうやら俺が手をついた棚はあと付けのものだったらしく、俺の体重を支えきれずに上に乗せてあったものごとひっくり返ってしまったようだ。近くに水槽のようなケースやプラスチックのボトルが散乱してしまっている。タオルで一所懸命俺の服を拭いながら心配そうな顔で俺を覗き込んでいる吉高さんに申し訳ないと思う。
「アンタが余計なことするからだよ。」
俺が盛大に転んだ事で冷めたのか、男は少し離れた所からあざけるように俺を見下ろしている。
「……帰れ………帰れよっ!二度と来んなっっ!!!」
大きな声を上げて、吉高さんは男に向かって床に転がっていたボトルを投げつけ、それは男の脛にぶつかった。
「ちょっと小遣い足りねえなと思った時にたまたま思い出しただけだ、お前の取り柄はそれしか無かったからな!でも、こんな面倒なことになるんなら来るんじゃなかったよっ、くそっ!!」
足元のボトルを蹴り飛ばし、悪態をつきながら男は店を出て行った。







 激しく揺れたドアベルの音が余韻を残して消えていく。それと一緒に俺の抱えていたわだかまりも消えてなくなった。
「………すみません、店をこんなにしてしまって…。」
低い声に俺は我に返る。タオルを手にして、保坂さんが立ち上がる。
「そんなっ、とんでもないです!こちらこそ本当にすみませんでした、こんな変なことに巻き込んじゃって……。スーツ、弁償させて下さい。それからとりあえず俺の家に来てくれますか?」
「あ、いや、濡れただけですから……。」
「ダメです!!どこかケガしてるかも知れないし、薬剤がかかってたら早く洗い流さないといけないんです!」
保坂さんがかぶってしまったのは、パーマ用の溶液を温めておくために張ってあったお湯だ。電源はかなり前に落としてあったが、薬剤が入ったボトルはそのままにしてあったから一緒に落ちてしまっていた。ノズルは細いものだから大量にかぶっている事はないはずだけれど、服につけばシミになってしまうし、直接肌に触れてしまうと炎症を起こしたようになってしまう場合もある。
 早く何とかしないと。
「とにかく!俺の家に来てくださいっ!!」
俺の勢いに圧倒されたのか、保坂さんは声もなく頷いた。



 大して広くはない1DKの造りだが、キッチンと部屋が仕切れるスライドドアがあり、キッチン側にユニットバスがある。
 シャワーの音が聞こえてきたのを合図に、俺は用意した袖を通していない新品のTシャツと、ジャージー素材のルームパンツを手にする。大きめのものを選んだから、多分保坂さんでも大丈夫だろう。そっとドアを開け、もう一度シャワーの音がしているのを確認してからユニットバスの前に設置している洗濯機の脇のスチール棚に着替えとバスタオルを準備した。
 脱いだものは洗濯機の上に置いておいて下さい、とお願いしていたのだが、びしょ濡れのシャツまでキレイに畳んであるのがいかにも保坂さんらしい。品質表示を確認して、スラックスも洗濯出来るものだったのにほっとする。シャツとスラックスをそれぞれネットに入れて、ドライクリーニング用の洗剤を入れて、スイッチを押した。
 タオルと着替えを用意したのをドア越しに声を掛けてから、冷蔵庫の中を物色する。気が付けば喉がカラカラだった。ペットボトルのお茶と缶ビールとスナック菓子、グラスも用意して部屋に戻る。ベッドに寄り掛かり、プルトップを開けて一口あおった。

 保坂さんにとんでもない迷惑をかけてしまった。
 改めて思って、大きな溜め息が漏れる。まさか男同士の痴情のもつれに巻き込まれるなんて、思いもよらないハプニングだったに違いない。俺がもっとしっかりしていれば、こんな事にならなかっただろう。
 でも、あんな風にかばってくれるなんて思いもよらなかった。あの状況なら関わりたくなくて立ち去るのが普通の反応だ。俺と圭介の間に割って入るようにした保坂さんの背中を思い出す。その背中は頼もしくて、思わず縋りついて甘えてしまいたくなった。
 ベッドに頭をもたれて天井を仰ぐ。
 どうしよう。俺、保坂さんが好きだ。今まで目を背けてきた、抑え込んでいた思いが溢れてくる。
 初めて声を掛けた時、いやそれよりも前から気になっていたのだ。髪を切らせて欲しい、なんてお願いをしたのはきっかけに過ぎない。それでも最初はただもう少し話せるようになれば、笑顔が見てみたい、とかささやかな願いだけだった。
 仲良くなりたい、だから好きになっちゃいけない。そうやって見て見ぬ振りをしてきた自分の気持ちはいつの間にかこんなに大きく、深くなっていたんだ。


 「すみません、お風呂まで頂いちゃって…。」
そろそろとドアを開けながら、保坂さんが戻ってきた。
「こっちに座って下さい。ビール、どうですか?あ、ダメならお茶もあるんで。」
初めて目にするラフな格好に思わずドキリとして、慌てて姿勢を正した。Tシャツから伸びた腕は意外と筋肉質で、いつもはシャツで隠れている首筋が露わになっていて、俺はあたふたと目を逸らす。
 頂きます、と保坂さんは少し汗をかいた缶ビールに手を伸ばしてプルトップに指を掛ける。俺は誘惑に逆らいきれずに保坂さんの動きを目で追ってしまう。少し血管の浮いた手の甲。プルトップを引き上げる時に一瞬だけぐっと盛り上がって影を作った腕。一口、二口と上下する喉仏。
「あのっ、すみません、俺もシャワー浴びてきてもいいですか?てきとう寛いでくれてていいですから。」
目を奪われて、やましい心が見透かされてしまいそうで、俺はバスルームに逃げ込む事にした。

 ドキドキしてる。これじゃまるで恋人と初めて迎える夜みたいだ、とか俺の勝手な妄想が一人歩きしている。
 落ち着かなきゃ。もう一度、ちゃんと謝って、圭介との事を正直に話そう。巻き込んでしまった責任は全てが俺にあるのだから、きちんと説明しよう。俺がゲイだというはもう知られてしまっているけど、それで急に態度を変えたりするような人じゃない、と信じたい。会ったら挨拶を交わすくらいは許してくれたらいい。それだけだってありがたいじゃないか。距離を置かれて当たり前だと思わなきゃいけない。
 今日、俺が保坂さんの髪を切った事で今まで彼がかっこいいと知らなかった女の子達もその魅力に気付くはずだ。ちょっと押しの強い、無邪気な可愛い子に迫られて、付き合い始めるとか、あり得ない話じゃない。むしろよっぽど自然で、簡単に想像出来る未来だ。保坂さんの幸せな将来のお手伝いが出来た、それでいいじゃないか。
 自分に言い聞かせて、最後に水のシャワーを浴びてから俺は部屋に戻った。

 さっきと同じ場所に腰を下ろし、飲みかけていたビールで喉を湿らせた。保坂さんに向かって正座をし、頭を下げる。
「今日はほんとうにすみませんでした。」
膝に揃えて置いた自分の手が目に入る。かさついた手。荒れた指先。水や薬剤を常に使っているから、どんなに手入れをしてもこうなってしまう。何だか恥ずかしくて、指先を隠すように手を握った。
「やめて下さい、俺は何も…。」
「スーツもちゃんと弁償させて下さい。あんな事があって俺と関わりたくないかもですけど、話をさせて欲しいんです。」
頭を下げたままの俺の肩に手が置かれた。
「話を聞きますから、どうか頭を上げて下さい。」
柔らかな、落ち着いた声。沁み渡るように胸がじんわりと温かくなる。優しく肩を押されて俺は頭を上げた。深呼吸を一つ、でも目線を合わせられずにうつむき加減のまま口を開く。
「俺と圭介、あ、あいつの名前なんですけど、昔、付き合ってたことがあって。その……俺、ゲイなんです。」
自然と力が入り、拳をぎゅっと握りしめた。
「俺がまだ美容師になったばっかりの頃で。圭介、あの見た目なんで、すごいモテたんです。付き合おうって言われて、俺なんか相手にされると思ってなかったから、それだけでうかれちゃって。バカですよね、俺。でも、ある日突然、お前みたいなのと付き合ってやってたんだから感謝しろ、みたいなこと言われて、それから連絡が取れなくなって、それっきりだったんです。」
何度も心の中で繰り返していた言葉。ぐるぐると廻るだけでどこにも行き場所のなかった気持ち。思えば誰かにこの話をした事はなかった。口に出してしまえば、ただの過去で別にたいした事じゃなかったと思える。
「それがこの前、5年振り、もっと経つのかな?急に店に来て、やり直そうとか言い出して。でも、そのセリフ、付き合ってた時にも何度も聞いてて。浮気がバレると必ずそう言ってましたから。分かってたんです、あいつにとって俺はただの遊び相手の一人だったのは。恥ずかしい話ですけど、まともに付き合ったのってあいつだけで、急に現れたもんだから俺、動揺しちゃって。保坂さんにはすごい迷惑掛けちゃいましたけど、ちゃんと決別出来たっていうか、気持ちの整理がついたというか…。」
沈黙が怖くて、俺は一人でペラペラと自分の気持ちを吐露していく。保坂さんがちゃんと聞いてくれている気配があるからで、そうじゃなければこんな話を打ち明けられない。本当に優しい人だと思う。

「………俺は余計な事をしましたか?」
ふいに投げ掛けられた言葉に思わず顔を上げた。
「もし、あなたが少しでも彼に思いを残していたなら、横から口を挟んでしまった事になる。」
真っ直ぐな視線を向けられて、まさかそんな切り返し方でくるとは思ってもいなかった俺は、まるで見当違いな保坂さんの考えを否定する。
「そんなこと、全然ないです!引きずってたのは未練とか執着とかじゃなくて、いいようにあしらわれてた自分が悔しくて、でもそれをぶつけようにも発散させる所もなくて、くすぶってただけなんです。でも、いざ目の前にしたらずっと考え過ぎちゃってたせいか、上手く文句も言えなくて…。だから保坂さんがいてくれて、かばってくれて、本当に助かりました。あ、でもひょっとしたら保坂さんのこと、彼氏だとか勘違いさせちゃって………。」
誤解を解こうとしただけだったのに、自分で口走った失言に気付いて、俺は慌てふためく。
「す、すみませんっ!!俺、何言ってんだ、俺なんかとそんな風に思われるだけでも気持ち悪いですよね、ほんと何言っちゃってんだろ、すみません。ほんと……」
「かまいません。」
きっぱりと言い切られて、俺は息をつめた。
「自分のしたい事をしただけです。吉高さんにあんな顔をさせるあの男が許せなかった。あなたを、守りたいと思った。」
予想してもいなかった言葉に、真剣な表情に、心臓が跳ねる。でもこれは俺を傷つけないように言ってくれたんだ。俺は自分をけん制する言葉を選ぶ。
「…………あ、…えっと、ありがとう、ございます……。何か、気をつかわせてしまって………。俺、大丈夫ですから。保坂さん、そんな優しいとほんとに勘違いされちゃいます、よ……………。」
「あなたが好きです。」
ふいに抱き寄せられ、無理に抑え込んだような声で告げられた信じがたい台詞。
「ちょっ……、待って、落ち着いて下さ………っ……。」
焦った俺の言葉は途中で遮られてしまった。強く押し付けられた唇。力強い腕に引き寄せられて、熱い身体と早い鼓動を感じる。キスされてる、そう自覚した時には唇も身体も離れていた。
「すみません!いきなりこんな………これじゃ、俺もあの男と変わらない………。」
両肩を掴んでいる手が熱い。驚きのあまり、ついまじまじと保坂さんの顔を見てしまう。耳まで真っ赤にして必死な様子で謝る姿が愛しくて堪らなくなる。圭介と同じなんてそんな訳ないのに。俺、こんなにドキドキしてるのに。


 酔った勢いでも一夜の過ちでも何でもいい。今日だけ、いや今だけでも夢を見るのを許して欲しい。
 今度は自分から抱きついて、唇を寄せた。