二人きりの世界で 3




 透真がまだ寝ていない事には気付いていた。額にそっと口付けたら微かに目蓋が震えたから。
 口元に笑みが浮かぶのをかみ殺して、俺も隣の布団に寝そべった。風呂場での事はちょっとした悪戯心からだった。ただその反応があまりにも可愛くて、ついつい度を越してしまった。その時の透真を思い出して、思わずくすりと笑いを零してしまう。
 透真の柔らかい猫っ毛が少しだけ覗いている布団が見えるように頬杖をつく。その髪に触れたくて手を伸ばしてみるが、このままでは届かない。側にいる時には少しでも触れ合っていたい、そう願ってしまう俺はわがままなのかも知れない。それでもそれを受け入れてもらえる自信はある。根拠も何も無いけれど。
「透真。」
さっきよりもはっきりと呼び掛けるが返事は無い。
「そっち行ってもいいだろ?せっかく二人っきりで旅行に来たのに。」
俺の切なる訴えをどうとったのか、透真がもぞもぞと身じろいだ。あと一押しって所か。
「お前抱き締めながら眠れないなんて寂しいだろ。なあ、透真。」
「………勝手にしろ……。」
素直じゃない許しの言葉をもらって透真の布団に潜り込み、背中から抱き締める。触れたかった髪はまだ少し湿っていて、慌ててここに逃げ込んできただろう姿を想像して、笑みを深くした。
 しっとりとした手触りの髪を優しく梳きながら、もう片方の手を腹の辺りに回して温かい体を確かめる。髪を梳く度に俺と同じシャンプーの匂いと、抱き合う事で覚えた透真の匂いが鼻先を掠める。

 こんなにも満たされる時がある事を透真と付き合うようになってから初めて知った。他人の体温を心地良いと感じたのもそうだ。
「やっぱ、こうじゃなきゃ眠れねえ。」
首筋に顔を埋め、満足して告げるとくすぐったいのか身をよじる。それでも俺の腕から逃げようとはしないから、それをいい事に透真を腕に閉じ込めたまま放してやらない。
「…バカじゃねえの……。」
そんな憎まれ口をたたくが、機嫌が悪い訳でないのは口調で分かる。猫が差し出した指に歯を立てず食む、そんな戯れ。
二人でいる時にはこうしてじゃれ合っていたい。甘やかしているようで、本当の所は俺が甘えているようなもんだ。こうやって素直になれるのは透真だからこそだ。それだけ特別で、唯一なんだと分かって欲しいのだが、控え目な性格な俺の恋人は自分を過小評価する。ただ、それすら愛おしいと思う。
 今までを振り返ってみれば、俺の見た目とステータスで付き合いたいと言ってくるような相手ばかりで、俺もそういう基準で相手を選別していた所がある。見栄えのいい人間を隣に置く。一種のアクセサリーのようなもの。飽きたら替えのきく、量産品だ。
 我ながら最低の人間だったと思うが、それが俺の当たり前だった。しかし、透真と出会って俺の世界は変わった。いや、広がったという方が正しいかも知れない。こんな風に愛おしいと思える存在があるという事に気付かせてくれた。透真の名誉の為にも言っておくが、勿論見た目においても透真は遜色が無い。でもそれだけじゃない魅力も持ち合わせているのだ。不器用だけれど何の衒いも奢りも無く、真っ直ぐに俺を受け止めてくれる。肩書に関係無く、俺自身を見て考えてくれる。ただ、考え過ぎて必要の無い悩みを抱えてしまう所が玉に瑕ではあるのだが。
 こんなに夢中なのにな、と心の中で呟いてから、
「おやすみ。」
と今夜二度目の言葉を耳元で囁いて、ゆっくりと目を閉じた。



 布団の中で考え込んでいたものの、学に頭を撫でられながら俺は気持ち良く眠りに誘われてしまった。抱き締められただけで、俺のモヤモヤはあっという間に溶かされてしまったらしい。
 こうやっていつも絆されてしまう。甘い声と柔らかな温もり。俺の心を見透かしているかのように、絶妙なタイミングで与えられるそれ。
 俺だって学の気持ちは嬉しくて、かけがえのないものを貰っているのだから、言葉では伝えられないかも知れないけど、いつか俺も与えられたらいい。

 学との初めての旅行のせいもあって、自分でも分からなかったけど疲れていたんだろう。背中の温もりにいつの間にか寝入ってしまった。





 「良かったな、天気良くて。」
翌朝、食事を取りながらそんな会話を交わす。これから車で少し遠出をして、ハイキングがてらに山にでも行こうという事になっていた。昨日、女将さんから聞いた情報とパンフで見つけた、自然の景観が楽しめる見晴らしの良い場所だ。山と言っても小高い丘らしく、残雪を気にする程の所では無いらしい。この季節、晴れなければそれも出来なかったのだが、幸いな事に空は澄み渡っている。ぽかぽかとした小春日和だ。
 もし宜しければ、と女将さんがお弁当を用意してくれていたのを有り難く受け取ってから俺達は旅館をあとにした。
 手始めに旅館から程近い植物園に行った。温室の中では色鮮やかな花が咲き乱れ、熱帯に生息している蝶がひらひらと舞っていて、ちょっとした異国気分だ。そこで育てているという南国のフルーツを食べる事も出来て、植物園なんて初めてだったがなかなかに楽しめた。
 そのあと資料室が併設されている公園に行き、そこで作ってもらった弁当を広げた。何だか修学旅行にでも来た気分になるが、もともと特に何も決めずにいた旅行なのだ。こうやって時間を気にする事無く、のんびりするのも偶にはいいだろう。いつも都会の喧騒に身を置いている俺達にとっては、どこに行っても自然が溢れる静かな環境はそれだけで珍しく、どれだけ忙しなく日々を過ごしているのかと実感する。



「すげーな。」
ゆっくりと昼食を済ませてから腹ごなしに公園を散策してから再び車に戻った。一時間程車を走らせ、辿り着いたのは小高い丘の上。街並みではなく、木々の豊かな景色が見下ろせる場所だ。常緑樹が群生しているのか、春はまだ先だというのに緑が多い。
 夕闇の迫る時間帯のせいで、自分達以外に人影は無い。俺も学も都会生まれの都会育ちだ。両親も同じようなもので夏休みなどに実家に出掛けた所で代わり映えのしない土地だった。こうして自然が溢れている所にいると、空気が綺麗だとか実感としてはよく分からないが清々しい気持ちになる。

 隣に立つ学の姿を盗み見るように窺うと柵に肘を付き、遠くに視線を投げている。冷たい風が学の長めの前髪を揺らして吹き抜けていく。その風に少しだけ目を眇めると俺の視線に気付いたのか、目線だけをこちらに寄越した。
「なんだ、見惚れるほどいい男か?」
ふざけた調子で決まり文句。言ったその目は目尻を緩ませている。
「いつもいつも、自意識過剰なんだよ。」
眼下に広がる景色に視線を逃がしてぼそぼそと反論してやる。確かに、夕陽を受けて陰影を濃く浮かべている横顔を思わず格好いいと思って見つめていたのだけれども。そんな事は言ってやらない。どうせ俺が言わなくったって、自分が格好いい事を存分に自覚しているんだ、学は。
 そんなひねた考えを巡らせて、眉を顰めた。すると、学は俺の髪を指先だけで掬った。さらりと耳元で髪が流れる音が聞こえる。それ程、静かなのだ。
「綺麗だな。」
「……何が。」
「透真が。髪も肌も夕陽で紅く染まってて、すげー綺麗。」
聞いているこっちが恥ずかしくなる台詞を平然と吐いて、それでも俺の髪を弄んでいる憎たらしいヤツの手を掴んで、
「もう帰るぞっ!」
そのまま駐車場に向かって歩き出した。

 いつもなら学から手を繋いできてそれを振り払うのだが、日が落ちた薄暗さのせいにして、俺は学の手を握ったままずんずんと早足で歩いていく。大人しくついてくる俺に学は目を細めて微笑んでいた。