始まりは突然で 2




 そこだけ空気が違う。本当にそう感じた。真っ白い空間の中で見る漆黒の髪に黒い服を着ているそいつは確かに浮き立つように目立つのだが、決してそれだけではない。スポットライトから外れた少し暗い場所にいるというのに、明らかにこの部屋での主はこの人間だと誰もが思うだろう。それ程の存在感。ただそこに居て、座っているだけだというのに。


 俺は思わず足をとめて、見惚れていたらしい。両脇の女性に腕を掴まれて前につんのめるようにそちらへと歩を進めることになった。
「こちら今日のお相手、透真君。イケメンでしょ?」
スッと音も無く目の前の男は立ち上がった。俺が軽く見上げる程の身長。190は超えているだろう。モデルだけあって細いが、決してなよなよとした感じでは無い。欧米人的な体つきなんだろう。肩幅も広く、より背が高く見える。それに作り物めいた完璧な顔立ち。同じ人間なのか疑いたくなってしまう程だ。こちらに軽く手を差し出すその所作も隙が無く、単純に綺麗だと思った。
「よろしく。」
低い声だけれど聞き取り難い訳では無い。響く声だからだ。呆気に取られていた俺は差し出された手の意味をやっとの事で理解して、自分も手を出し、その大きな手と握手をした。慣れない行為に緊張が高まるのを感じた。

 「撮影入ってもいいかな?」
カメラマンが言う。ニコニコと人懐こい笑顔で、俺たちの方へ近づいてくる。
「ああ、いいですよ。」
「学ちゃん、今日はほんと有難う。助かった、君がOKしてくれてさ。」
「他でもない西山さんの頼みですから断れませんよ。あとが怖くて。」
言ってくれるね、と苦笑しながらカメラマンは言いながら、今度は俺へと話の矛先を向けた。
「えーと、透真君だったよね。僕、今日撮らせてもらうカメラマンの西山と言います。普段通りな感じで撮りたいから、ポーズとか特に指定しないでそこのソファで学ちゃんと話してもらって、それで撮らせてもらいたいんだ。…そうだな、気の置けない友達同士みたいな感覚で。」

「はあ…。」
言われている事は理解出来た。でも普段通りをこの男と?
 想像出来ない。もうこの時点で俺にはどうしたらいいのか分からなくなっていた。
「西山さん、説明しても逆に難しいから何も考えないでこのまま撮影入りましょう。」


 俺はそのモデルに促されて、部屋の真ん中にあるソファへと腰を下ろした。皆が見ている。やばい、これ、すげー緊張する…。隣に腰を下ろした男の顔を思わず見た。すがるような目をしていたかも知れない。だって今この状況で頼れるのはこいつだけだし。
「俺の事は学って呼んでくれていい。会話も敬語とかいらないから。リラックスして。」
俺の目をきちんと見ながら話す学。決してからかっているような様子ではなく、ガチガチになってる俺を気遣ってくれているのが分かった。
「……はい。」
いきなり畏まってるじゃねえか、と笑われた。砕けた言葉遣いで話し、大きく脚を開いて座るその膝に両肘を付き、頬杖をつくように俺の顔を下から覗き込んでいる。イメージとは少し違う。もっと冷たい口調で表情も変えずに喋る姿を想像させる顔立ちなのだ。それこそ人形とかサイボーグとか。
「俺、ほんとは今日みたいな撮影のが楽なんだよ。西山さんとは気心も知れてるし、やり易い。で、透真は多分、俺の事知らない。そうだろ?」
確かに俺はあんまりファッション雑誌を読まない。それ程服に興味がある訳でも無いし、まあ彼女でもいればもっと着るものも考えるのかも知れないけど、今の所はそんな心配は無用なのだ。多分、有名なモデルなのだ。周りの人の扱いで何となくそれは感じられる。
「…今日、知った。」
何だか少し申し訳無くて、小さな声で返事をした。
「いいんだ、その方が。きっといい写真が撮れる。こんな感じで世間話してる間に終わるから、あんま心配すんな。」
微かに頷いた。確かにこうやって話をしている間は周りが気にならなくなる。学の声を聞いて、目線を合わせ、それに集中していて、他に目がいかない。目が離せない…。


「今日のはバイト?モデル志望って感じじゃねえもんな。」
「モデル出来るようなナリじゃねえし。」
「そうか?顔もスタイルもいい線いってると思うけど。」
「………お世辞か。」
そんな会話をしている間にもカメラのシャッターは切られている。パシャパシャという音と焚かれるフラッシュ。でも不思議と緊張はとけていた。学の低い、落ち着いた声。決してうるさく感じさせないゆったりとした喋り方。何だかとても心地がいい。

「お世辞じゃねえって。俺、お前の顔、好きだぜ。」
近付けられた顔。潜められた声。どきりと心臓が跳ねた。作り物めいた顔が微笑んだ。ただそれだけだというのに。
「…っ、そんなの、女口説く時に言えよっ…。」
俺も知らずに声を潜めて言い返した。多分、顔は赤い。思わず顔を背けてしまった。まともに見ていられない…。

 突然、膝の上に重みを感じた。何事かと視線を自分の膝へと戻すとばっちりと目線が合う。驚いた事に学が俺の膝を枕にソファに寝そべっていた。投げ出された長い脚は、ソファの肘掛からはみ出している。
「ちょっ…何してんだよっっ。」
「ひざ枕。」
あたふたと慌てる俺を尻目に悪びれる様子も無く、しれっとそんな事を言い放った。下から見上げてくる瞳は笑っている。
「仲良さそうに見えるだろ?自然体で、って言ってただろ、西山さんが。」
楽しそうに、というか揶揄うように俺を見ている学。
「これのどこが自然体なんだよ。」
文句を返したところでどこ吹く風といった風情で一向にどく気配は見せない。
「いいじゃねえか、別に減るモンじゃないし。」
悠然と脚を組み替えて、また俺を見上げてくる。
「……好きにしてくれ…。」
俺は諦めた。こいつにはきっと何を言っても無駄だ。俺は無意識に顔を仰のけ、髪に手を突っ込んで頭を掻く。しばらくしてから気が付いた。髪はセットを崩さないように言われてたんだっけ。でも、もうそんな事もどうでもよくなっていた。



 「お疲れさま。いいの撮れたよ。予定より大きい写真で使わせてもらうと思うよ。」
撮影が終わって、メイクを落としてもらっている間にカメラマンの西山さんが入ってきた。
「お疲れ様です。」
動く事が出来ない俺は鏡越しに軽く会釈をして言葉を返す。
「学ちゃんのあんな顔撮れるなんて、今日はラッキーだね。君もいい顔してた。仲いい友達同士がじゃれてるみたいな、いい雰囲気出てた。」
ニコニコと西山さんが言うと、
「ほんと、あんな砕けたっていうか、普段の素を見せてるみたいな学ちゃん初めて見た。透真君のこと、よっぽど気に入ったのね。」
メイクの松ノ木さんも一緒になって笑っている。気に入られた?…ある意味そうなのかも知れない。俺が思ったのは、お気に入りのオモチャを見つけた子供みたいな、という意味だけど。

 変なヤツ…。
 それが俺の学に対する感想だった。変なヤツだけど、嫌なヤツじゃない。からかわれていると感じたけれど、不思議とそれ程嫌でもなかった。この短時間で俺は上手いこと学に丸め込まれてしまったらしい。何よりもあの容姿で、あんな風に笑うなんて、ズルいと思う。心臓に悪い。微笑み掛けられただけできっとほとんどの女はその気になるだろう。まあ俺は男だから関係無いけど…。