建前だけでは生きられない 2




 「しまった……。」
部屋での独り言。連日のプレゼンテーションの後、契約が決まった仕事の為の3日間の出張を終え、ようやく帰宅した翌日だった。久し振りの休日に溜まった洗濯物を何とか片付け、軽く掃除を済ませて、さて一服と思った所で気が付いた。買い置きの煙草も無くなっていて、残っていたのはただの空き箱。一度吸いたいと思うとそれが頭から離れなくなってしまうのが喫煙者の性だ。
 買い出しの為のスーパーに行く時にはもう少しマシな服に着替えて行くが、そんな気力もなく煙草を買いに行くだけならいいかと休日のパジャマ兼部屋着となっているヨレヨレのTシャツとジャージのまま、ポケットに財布から取り出した札を無造作に突っ込んだ。サンダルを引っ掛けてマンションを後にする。

 外に出てから昼間だというのにやたらと暗い事に気付く。何気なしに空を見上げれば、今にも雨が降り出しそうな真っ黒な雲が空を覆っていた。それでも傘を取りに戻る気にはなれず、そのままいつもの駅前のコンビニへと足を速めた。



 昼下がりの店内には他に客は居らず、閑散としていた。俺は真っ直ぐにレジに向かい、
「68番ワンカートン。」
必要な事だけをぼそぼそと告げる。いかにもかったるそうに見えている事だろう。すると、カウンターにいた主婦のバイトらしきおばちゃんも「お待ちください」と、これまた面倒そうに言い置いてから奥へと引っ込んだ。
 直ぐに戻って来た気配がしたので、ポケットの中をまさぐり、変に折れ曲がった札を確認した所で、
「お待たせしました。」
聞こえてきたのは覚えのある声。思わず顔を上げた。そこにいたのはいつもの勤労青年で、俺は何故か慌てた。そして恥ずかしくなった。
 普段関わりの無い人の前であれば、どんな薄汚れた格好をしていようが気にもしないし、相手だって気にしていないだろうと勝手に思い込む事が出来る。しかし、彼は……。
 寝癖のついた頭に思わず手を伸ばし、髪を押さえる。ああ、でも毎日何十人、下手すれば100人を超える客が来店するコンビニで一々顔を覚えている事も無いのでは、と思い当たる。

「こちらでお間違いないですか?」
爽やかな声と共に笑顔を向けられて、居た堪れなくてとにかく早くここから立ち去ろうとあたふたと札をカウンターに置いた。
 なるべく顔を合わさないよう、気付かないでいて欲しいと願いながら俯いていた。
「5000円お預かり致します。」
彼の手がカウンターに伸び、くしゃくしゃの札を広げているのが目の端に映る。
 彼が差し出したレシートと釣りを無言で受け取り、ジャージのポケットに突っ込んで煙草の入った手提げ袋を半ばひったくる様に掴んで早々に立ち去ろうとした。
 しかし……。

 扉へと足を向けた所で気付いた。外はいつの間にやら大雨で、店の中に居てもその音が聞こえてくる程に激しく降っていた。いくら近所とはいえ、これで歩いて帰ればずぶ濡れになる事は避けられまい。しかも包装されているとはいえ、煙草を持って帰るのは躊躇われる。出口まで足を向けかけた所で立ち往生していた俺に、
「お客さん、これ、もし良かったら。」
いつの間にか俺の後ろに立って、にっこりと笑って折り畳み傘を差し出していたのは、いつもの彼だ。
「あ、いや…。」
俺ははっきりしない言葉を無意味に発して彼から逃れようとしたが、腕を掴まれて立ち止まる。
「いつも夜、来てくれてますよね?今日はお休みですか?俺、ほとんど毎日ここで働いてるんで、ついでの時に返してくれればいいですから。あ、俺、塚原幹生っていいます。」
有無を言わさない雰囲気をかもしながら、それでいて人懐こい笑顔で自己紹介された。確りバレてしまっている事が分かり、恥ずかしさで顔が赤くなっていく。
「あ…え、と………森竜成です……。」
しかし、人に名乗らせておいて知らん顔を出来る程、俺は厚顔無恥ではない。というか、小心者なのだ。こんな所で、こんな出で立ちで良い人振ってみたって何にもならないだろうけども、長年の愛想だけで渡ってきた俺の人生には不可欠な反射的行動だった。
「竜成さん、ですね。よーく覚えておきます。」
俺の手に強引に傘を握らせると、
「じゃ、気を付けて下さいね。有難う御座いました。」
と、彼は笑顔で俺を送り出したのだった。



 それ以来、日参しているコンビニで彼の姿を見なくなった。いつでも返せるようにと傘をカバンの中に常備しているのだが、肝心の彼が居ない。預けてしまえばいいとも思うが、何となくそれは無責任な感じがして出来ずにいた。そんな訳で、何となくモヤモヤした気持ちを抱えてはコンビニを訪れていた。
 別にどうという事でも無いのだが、据わりが悪いと言えばよいのか、落ち着かない。彼はただ単に多少強引ながらも善意の手を差し伸べてくれただけで他意はないだろう。人からすれば、たかがそれだけの事と一笑するような出来事だ。ちょっと顔見知りになった店員に親切にされた、それだけの事。普段のだらしのない姿を見られた、という男にしたら些細な問題なだけ。自分でも何をこんなに悶々と考えて気にしているのか、はっきりとは分からない。大した事では無いのだから開き直ればいいものの、それが出来ない。  あの時からふとした瞬間に彼の顔がチラつくのだ。俺の浮かべる上辺だけの愛想笑いでは無いと思えるあの爽やかな笑顔。どうすればあんな風に笑えるのか。ある意味、劣等感のようなものを覚えているのかも知れない。自分がそうやって笑っていたのはいつ頃だっただろう、なんて感傷に耽ってしまったり、朝、洗面台で鏡の前で無理矢理に笑顔を浮かべて彼のものと比べてみては嫌気がさしてみたり。

 本当だったら顔を合わせる事も避けたいと思うのだが、借り物をしている手前、それを無視出来るほど俺の神経は図太くできていない。
   会いたくない、でも会わなければ傘を返す事は出来ない。

 そして今日も…。
「ありがとうございましたー。」
彼は居ない。金髪の青年のおざなりな挨拶にも「ありがとう」と言葉を返し、コンビニをあとにした。




 お得意様の接待。これは今の世の中になっても全く無くなるものではない。やはり人との直接的なつながりというものは、ビジネスには欠かせないのだ。今日は週末、しかも無事にイベントが成功し、相手先からぜひとも、という誘いだった事もあり、断るのははばかられた。これから良い顧客になってくれそうな、大口取引先なのだ。相手も取締役が直々に参加するというので、俺の方も担当者だけを送り込む訳にはいかなかった。あまり得意でない酒を勧められるままに頂戴していたら、俺の気分は絶不調。それでも明日は休みだと自分に言い聞かせ、何とか最後まで付き合った。相手はかなりの酒豪らしく、俺よりもよっぽど飲んでいたが、けろりとした顔で上機嫌だった。その相手には御付きの送迎係りがいるらしく、自社の送迎車で気分良く帰って下さった。それを笑顔で見送ったあと、一人、溜息を零した。
 電車は終電ギリギリの時間だったが、駅まで急ぐ気力もなく、タクシーを捕まえた。ここからなら30分程で自宅まで帰り着くだろう。