建前だけでは生きられない 3




 マズイ…。見慣れた景色になってきた辺りで気分の悪さがぶり返してきた。
「…すみません、ここで……。」
何とかそれだけを口にして会計を済ます。ふらつく足で近くのバス停にあったベンチまで辿り着いた所でどっかりと腰を下ろした。気持ち悪さを鎮めようとネクタイを緩め、深呼吸をする。夜の冷ややかな空気が肺を満たしていくと、少しだけ落ち着いた。しばらくここで気分を治めてから帰ろう。



「………だろ?!」
風に乗って、どこからか声が届いた。この辺りは駅から少し離れている住宅地だから、夜中のこの時間は静まり返っているはずなのに。バス停の後ろは公園。どうもそちらから声が流れてきたようだ。
 気分が回復してきたせいか、声も先程よりはっきりと聞こえてきた。
「お前さ、なんな訳?誰にでもいい顔して、いつもヘラヘラ笑ってやがって。ほんとは心の底では人のことバカにしてんだろ?」
人通りどころか車もほとんど通らないせいもあるだろうが、男の声はよく通る。口論でもしているのだろうか、そういう内容だが相手の声は聞こえない。電話か?
「自分の気持ちを理解出来るヤツなんている訳ないって勝手に決め付けて、他人と一線引いてバカにしてんだ。お高くとまってんだよ。」
まるで自分の事を言われているようでどきりとした。それと同時にムカッ腹が立つ。
 声の主を確かめてやろうと、俺は背後の公園の茂みに顔を巡らせた。
「ナメてかかってんのが丸見えだ。本気になるのがみっともねえとか思ってんの?いや、ちげぇな。面倒なんだろ?さも自分は大人だ、って顔してよ。小心者なだけじゃねえか。」
たまらず立ち上がり、声のする方へと向かった。

 イラつく。普段なら聞き流せるような言葉がいちいち気に障る。酔っているからなのか感情が抑えられない。ずんずんと公園の中へと踏み込んでいく。
 目当ては直ぐに見つかった。大して広くも無い公園に人影は無いのだから、間違いようがない。街頭の下にすらりと背の高い男のシルエットが見える。歩を緩める事なく近付いていくと、その男は俺に気付いたようでこちらに顔を向けたようだ。明かりが男の背後から照らしているから顔はよく見えない。
「おい、アンタ。」
普段の自分からは考えられない不躾な言葉を真っ黒い影にぶつけた。多分、目が据わっている。
「好き勝手なこと抜かして、お前こそ何様のつもりだ?」
ただの難癖をつけるオヤジと化しているのに気付いてはいるが、今更止められない。とにかくムカムカするんだ。
 男はこちらを向いたまま微動だにしないのが更に腹立たしくなる。
「俺だって分かってんだよ!良く思われたいなんていう下心で愛想振りまいて。嫌になる時だってあるさ。でもそんなもん、誰でも思う事だろう!」
何を俺はこんなに興奮してるんだ、と頭の片隅に過ぎったがもう遅い。捲くし立てるように言い放っていた。
「………竜成、さん?」
突然名前を言い当てられて、心臓が止まるかと思う程驚いた。まさか知り合いに酔っ払って管巻いたなんて。
 ぴたりと黙った俺にその男は確証を得たように再び名前を呼ぶ。
「竜成さん、酔ってますね。お仕事帰りですか?こんな時間までお疲れ様です。」
さっきまでの感じの悪い口調とは打って変わって、人懐こい声音で思い当たった。あのコンビニ店員の塚原君だ。
 気付いた途端、彼が何でこんな所に居るのかとか、夜中に何をしていたのかとか、そういった事がぐるぐる頭を巡ったような気がしたが、恥ずかしさが先にたった。膝から力が抜ける。ここから逃げ出したいと思っても足が動かない。
「大丈夫ですか?」
もうだめだ。愛想だけで渡ってきた俺の人生、台無しだ。
 彼の言葉も遠くで聞こえているようにぼんやりとしていた。




 「はい、どうぞ。」
水の入ったグラスを差し出されて、一瞬ためらったものの有り難く頂戴した。酔いは大分醒めたように思っていたがそうでもなかったらしい。喉を通っていく水がやたらと冷たく感じた。
 公園で踵を返して逃げようと思ったが、足がもつれて転びそうになった所を彼に助けられて今に至る。情けなくも世話になり、連れて来られたのは彼の部屋だった。公園から程近いアパートの一室。6畳程だろうか、ワンルームの部屋はきちんと片付いていた。乱雑に散らかっている俺の部屋とは大違いだ。ソファは無く、彼に導かれるままベッドに腰を下ろした。

 あんな失態を晒しておいて、何故諾々と彼に従ってしまうのか。貰った水のおかげで少し頭が冷えた。そのおかげというか何と言うか、冷静になってくるにつれて、居た堪れなさが襲ってきた。
「すまないね、迷惑を掛けた。もう大丈夫だから帰ります。」
少なからず動揺し始めた心を押し隠しながら、愛想笑いで誤魔化した。結局それしか出来ないのだ。暴言を吐いた事は無かった事にしておきたい。そっとしておいて欲しい。見て見ぬ振りで済ませて頂きたい。自分勝手ながらも。
「そんなに腹立ちました?さっきの台詞。」
彼はまるで俺の言葉が聞こえていなかったかのように話を始めた。
「いやー、むしろ本望ですけど。自信ついちゃうな〜。俺、そんなに嫌な感じでした?俺としては竜成さんのあんな姿見られてラッキーだな、なんて思ってみたりして。」
楽しくてたまらない、といった風情で彼は話し続ける。
「思った通りの人で俺は嬉しいというか、ますます気に入っちゃいました。」
意味不明の言葉で締めくくり、俺の足元の床に座っていた彼は下から顔を覗き込む様に俺の様子を伺ってきた。笑顔だが、いつものような爽やかなだけのものではない。悪戯っ子のような、そんな笑みを浮かべていた。
「あの……とにかく、世話になったね。ありがとう。」
埒が明かないと思った俺は、無理矢理会話を終わらせて腰を上げようとした。
「ダメですって。まだ酔ってるでしょ?危ないですよ。それに答えてもらってません。俺、そんなに嫌味な感じになってましたか?」
思いの外強い力で腕を掴まれ、立ち上がろうとした所を止められた。
 何なんだ、これは。まるで分からない。彼の思っている事が全く読めない。
 俺に傘を渡した時もそうだったが、この強引さは一体何なんだ。俺なんかにこだわる必要は無いと思うのだが。
「いや、だからあれは、酔った勢いというか………とにかくもう勘弁してくれ。悪かったよ。」
再び笑みを浮かべて何とかこの場を乗り切ろうと試みる。

 「だーかーらー、そんな上辺のことはいいんだよ。ムカついたかどうか、って聞いてんの。どうなんだよ、俺にホントのこと言われて頭にキたんだろ?」
突然、彼の口調が変わった。驚いて思わず彼の顔をまじまじと見つめてしまった。それまでは何となく彼と目線を合わせないように話していたのだ。
 口許にうっすらと笑みを浮かべて、片眉を少し上げた、まるで人を小馬鹿にしたような表情。
 一瞬にして頭に血が昇った気がした。平静でいられない。何でこいつは俺の心をざわつかせるんだ。
 ……いや、だめだ。抑えろ、俺。こんな事で乱されてどうする。今までだってもっと腹立たしい思いをした事があるだろう。
 心の中だけで自問自答を繰り返しながらも葛藤する。
「本心晒すのが怖いんだ。へぇー、俺に見抜かれてんのが癪に障る、ってか。」
「お前に俺の何が分かるって言うんだっ!ふざけるなっっ!!!」
結局、俺の葛藤は役に立たずに声を荒げて吐き捨てた。
「アンタは表面的にいい人やってるだけだろ?そんなの無駄な努力じゃん。」
ずばり言い当てられて、
「そうだよ、悪いかっ!俺には俺の生き方があるんだよ、お前にとやかく言われる筋合いはないっ!!」
勢いのままにわめき散らした。

「悪くないですよ。そういう所が俺のツボなんです。」
唐突に彼の口調は元に戻った。
「器用に世間を渡ってるようで実は不器用な所とか、プライベートは油断しちゃってる所とか。」
怒鳴ったせいでくらくらしている頭に彼の言葉がぼんやりと響いてくる。
「ねえ、竜成さんって部屋とか散らかってるタイプでしょ?一人でいると気が抜けて面倒になっちゃうんじゃないですか?」
まるで小さな子供に言い聞かせるかのように、俺の顔を覗き込みながら話し掛けてくる。
 頭に昇っていた血がゆっくりと下がってくる。彼の言った事は全て図星だ。まさしく俺はそういう人間だ。何故、彼はここまで俺を見抜くのだ。どうして……心の中で呟く。
 彼の顔を驚きの顔で見つめていたら、チュッと音を立ててキスされた。
「なっ……!!」
思わず口許を手で覆う。
 抱き寄せられたと思ったら、そのままベッドに押し倒された。
「カワイイ…。」
囁かれて肩口に顔を埋めている彼の吐息が首筋にかかる。混乱を極めている俺をよそに再び唇を塞がれた。
「んっ、んんっっ………。」
彼を押しのけようともがくが、完全に体重を乗せられて思うように体が動かない。急に酔いがぶり返したように、こめかみがどくどくと脈打つ音が頭に響く。体が、熱い。
 彼は器用に俺の腕を頭上でまとめて更に動きを封じられてしまう。一旦キスをやめて、空いた手でだらしなく下がっていたネクタイを解かれ、シャツのボタンを外されていく。
「なに…する、んだ……離せっ…。」
「そういう顔もそそります。」
彼は楽しそうだ。
「…っ……ふざけるなっっ…。」
「ふざけてませんって。言ったでしょ?俺、竜成さんの事、愛しちゃってるんです。」
身を捩りながら声を絞り出した所で彼は全く意に介していない。
「俺は…男、だっ!」
「そんなの知ってます。俺、そういうの気にしないタイプなんで。」
ダメだ。宇宙人と会話してるんじゃないか、と思う程に会話が通じない。
「酔った勢い、って事にして俺とイイコト、しましょうよ。」