百花繚乱 〜石蕗の決意、西洋躑躅の夜〜 2




 「やあ、また会ったね。」
いやに馴れ馴れしく声を掛けられた。今日も美果様にお会い出来ると浮き足立った気持ちで、お屋敷へ仕事に向かう途中だった。声の方へ顔を向けると、ついこの間見掛けた、あの男だった。途端に美果様の忠告を思い出し、俺はあたふたとその場から逃げ出そうとした。
「美果は元気にしているかい?」
美果様の名前が男の口から出た事で、俺の足はぴたりと止まってしまった。しかも如何にも親しい風な口調で名前を呼んだから。以前よりも砕けた話し振りに親近感を覚えてもいいはずだというのに、そうは思えない怪しい人物を眇めた目で見据えた。
「僕は美果の家庭教師だったんだ。英国でね。」
人の好い笑みで一方的に言葉を続ける。
「もうそろそろ、美果も自分の本心に気付く頃だろうと思って、ね。」
いやに含みのある台詞だ。ますます男に対して不信感が募る。嫌な感じがするのだ。にこやかに話す癖に、どこかが底冷えするような寒さを感じる。

「あの…俺、仕事に行かなければならないので…。」
何とかこの接触を短くしたくて、逃げ腰になる。早くこの男から離れたくて、早く美果様に会いたくて…。
「君は美果の一面しか知らない。」
断言される。どきりと胸が騒いだ。家庭教師をしていた、と言うなら俺よりもずっと長い時間を共にしていたはずだ。それに引き換え、俺はまだ出会って然程経っていない。当たり前の事だけれど、何故か悔しい。心が騒ぐ。
「急いでいますから。」
強く言い放って、その場を足早に後にする。その後ろから放たれた言葉。

「今度会う時には、美果の本当の姿を教えてあげよう。」


 結局美果様にはこの遭遇を話す事は出来なかった。あの冷たい眼を思い出してしまって。特に美果様には嘘をつけない、そんな自分を知っていたから、思わず美果様を避けてしまう。襤褸(ぼろ)が出てしまいそうで。美果様はそんな俺に戸惑っているようでもあり、不安を持っているようでもあり。それでも俺は態度を変える事は出来なかった。悲しませたくない、あの冷たい眼にはきっと何かあるはずだから。



 お屋敷の庭の花壇の手入れをしていたある日の事だった。無心に花と向き合っていると心が落ち着く。今日は石蕗(つわぶき)を植えている。日陰でもよく育つし、黄色い小さな花が素朴で可愛らしい。秋の彩りを添えてくれるだろう。

 ふと日差しが陰った事に気付いて思わず顔を上げた。すると、どうやってここまで入って来たのか、あの男が真後ろに立っていた。驚いて思わず立ち上がって後ずさりした。
「すごい警戒振りだ。」
さも可笑しそうにくすりと笑われた。動揺と戸惑いが生まれる。そして改めて気付かされる。この男は笑顔を装っているだけで、やはり目は笑っていないという事に。怖い人だ、と反射的にじりじりと後ろへ下がっていた。まるで威圧されるかのように。
「君は美果のお気に入りなんだろう?」
腕をつかまれ、恐怖心が増す。
「や、やめて下さいっ!放してっ…。」
振り解こうとしたところ、いきなり抱きすくめられて息が止まる。
「毎日、可愛がってもらっているんだろう?ん?違うのかい?」
耳元で囁かれ、首筋から徐々に下へと手が這わされる。身震いするような悪寒が走り、必死に逃げようともがくが、力強い腕は解けそうも無い。
「あの子には全てを教えたよ。語学は勿論、それ以外の教養、礼儀作法…それに、こういう事も。」
「…んんっ……。」
何を言われているのか理解出来ていない状況のまま、いきなり唇を奪われた。背中を這っていた手は、厭らしい手付きで尻を撫で回している。嫌悪感しか呼び起こさない行為に抗ってみてもいっこうに離れる事が出来ない。息が苦しくなってくる。嫌だ、こんな事。知らずと涙が滲んでくる。
「…随分と初心な反応をするじゃないか。あの淫蕩な美果に可愛がられているとはとても思えないな。」
さも驚いた風に告げるが、本心は分からない。まるで嘲るかのように俺の顔を覗き込み、冷笑を投げ掛けてくる。
「あの子は、当に普通では満足出来ない身体になっている。何しろ、僕が育て上げた最上に気高く美しく、そして最高に奔放で淫乱な堕天使だ…。」
夢想しているかのようなうっとりとした口調で紡がれる言葉は俺に向けたものでは無いようで。この男の闇を覗いてしまったようで、恐怖で身体が動かない。


 「離れなさいっ!」
荒げられた声と共に、俺の身体は解放された。震える手を握り締め、顔を上げると目の前には美果様の背中があった。
「…どうして、ここへ。」
恐ろしく低い声で非難めいた言葉を投げる。その美果様の握り締めた手も小刻みに震えていて。
「随分な挨拶じゃないか。はるばる日本まで君に会いに来たというのに。」
男はまるで堪えた様子も無く、平然と美果様と対峙する。
「I never think I want to meet you.(私は会いたいと思った事など一度もありません。)」
俺には何を言っているのか分からない言葉を美果様が発した。
「You became more beautiful so much. It’s my pleasure.(とても美しく成長したね。僕は嬉しいよ。)」
「Elbert, you have to get out here. Right now! (エルバート、出て行って下さい、今すぐ!)」
激昂した様子で鋭い声を投げつけるも、男は全く意に介していないようだ。相変わらず、正体不明の笑みを浮かべたままだ。
「Mika, you are taken only me, aren’t you?(美果、君を受け入れられるのは僕しかいない、そうだろう?)」

 男の言葉に美果様は酷く心を乱されたようで、じっと耐えるように俯いてしまった。その腕をつかもうと、男が歩を進めた時だった。花壇の脇、まだ植えかけてあった石蕗を踏みつけた、それを目にした瞬間、俺は一瞬にして頭に血が昇ってしまい、叫んでいた。
「やめて下さいっ!!」
勢い、美果様の前へと飛び出し、男を突き飛ばした。それでも二、三歩よろけただけで、未だ不敵な笑みを浮かべたまま、俺を見やった。
「おや、君は英語が分かるのかい?」
その様子にも更に怒りをかられて、矢継ぎ早に言葉を続ける。
「そんなの、分かりません。でも、貴方が嫌な人だという事位分かります。花を足蹴にするような人間が良い人で無い位、無能な俺にだって分かります!」
花を踏みつけても気付かないような人間、それに対する怒り。でもそれだけでは済まされない程の激しい怒りが湧いてくる。
 「美果様だって、貴方みたいな人、嫌いですっ!!」
思わず口をついて出た言葉。そう、嫉妬だ。俺の知らない美果様を知っているという余裕の態度を取るこの男に腹が立つのだ。二人の会話は全く理解出来なかったけれど、美果様がこの男の何かを恐れ、嫌悪している事位は感じ取れた。
「ほう。君は美果を理解出来るのかな?全てを受け入れられるとでも。」

「当たり前です!俺は美果様になら何をされたって嫌じゃない。喩え殺されたとしても、俺は幸せですっ!」
無我夢中で言った言葉。心の奥底から湧き上がってきた言葉。美果様が俺に微笑みかけてくれた時から、ずっと思っていた事だった。俺だけ見てくれれば、俺の事だけ思ってくれれば、そういうどす黒い、醜い独占欲。それに美果様に全てを捧げたいと思う、そんな信仰心にも似た気持ち。


 突然後ろから抱きすくめられ、柔らかな髪が頬に触れる感触がした。
「…蒼太。」
背中に伝わる振動がとても温かかった。頭に昇った血が一気に下がって体の力が抜けていく。膝から崩折れそうになったけれど、美果様に強い力で支えられてなんとか立っていられた。

 「I think I want to have a good life with him. I already don’t need you, Elbert because I were taught love for him and love him.(私はこの子との人生を望んでいます。私にはもう貴方は必要ないのです。彼に愛を教えて貰い、私も彼を愛していますから。)」
囁くように言われた言葉は分からなかったけれど、その声音にはうっとりと全てを委ねたくなるような心地良い響きがあった。

「やれやれ、仕方が無い。今回は諦める事にしよう。いつでも僕の所に帰っておいで。その子に捨てられたら、もう本当に僕の所に戻るしか道が無いからね。」
目の前の男は軽い調子でそう口にした。俺の気持ちを軽く見られているようで癪に障ったが、得体の知れないこの男にあそこまで自分が楯突いた事に、冷静になった頭が恐怖を覚えている事も事実だ。美果様はまだ俺を抱き締めたままで、俺はそれで何とか心の平静を保っていた。



 「僕は僕なりに君を愛していたんだけれどね。」
 男はくるりと踵を返して、そう台詞を残し、軽く手を上げて門扉へとゆったりとした足取りで去っていった。