百花繚乱 〜石蕗の決意、西洋躑躅の夜〜 3




 それから美果様と二人、石蕗を花壇へと植えた。勿論俺は一人でやると、美果様にこんな事はさせられないと断ったのだけれど、聞き入れては貰えなかった。


「…花を付けてくれるでしょうか。」
唐突に問われた質問。踏みつけられてしまった石蕗の事を指しているのだろう。
「『困難に傷つけられない』。……この石蕗の花言葉です。とっても生命力の強い花なんです。」
隣に片膝を立ててしゃがみ込んでいた美果様はふと手を止めて、石蕗をじっと見つめた。
「……負けていられませんね、私も…。」
小さく呟きながら、葉をそっと指先で撫でた。言葉の真意はつかめなかったけれど、おもむろに上げられた視線は俺の目を真っ直ぐに見つめる。気高く、決意を秘めた美しい瞳だった。そのあまりの美しさに俺は言葉を忘れてしまったかのように見惚れてしまう。

「さあ、今日はこれで蒼太も仕事を終わりになさい。高橋も帰って来たようです。お茶にしましょう。」
買い物へと出掛けていた高橋さんの姿が庭先に見えたのを目に留めて、俺にも作業を切り上げるように促す。

「はい、美果様。」


 いつもの部屋で紅茶を用意されるのを待って、卓についた。どうやら置き去りにされていたらしいガブリエルが美果様の足元にうずくまる。
「どうぞ。」
高橋さんは銀盆を片手に茶器を配膳していく。

「あの人は英国時代に私の家庭教師をしていた男でした。」
おもむろに話し出した美果様の言葉に高橋さんの手が揺れ、かちゃりと少し大きな音を立てた。こんな事、いつもの高橋さんなら絶対に有り得ない。
「美果様…まさか……。」
驚いた様子だったけれど、声を荒げる事は無く、高橋さんは無理矢理平静を装っているようだ。
「高橋も聞いていて欲しい。」
美果様は少し顔を上げ、高橋さんを見据えた。俺は黙ったまま、その様子を見つめていた。美果様が一体何を俺に話してくれるのか、期待と不安とがない交ぜになった気持ちでいた。でも止める気は一切無かった。どんな事でも美果様から教えて貰えるのであれば、それだけ俺を認めてもらえているというか、信用してもらえているというか、そう思えて嬉しいのだ。だから黙ってその時を待つだけだ。
「私の母の故郷へと両親の仕事で移って、向こうで暮らし始めてからでした。」
美果様は俺の目をきちんと見ながら話し出した。


 日本を愛していたご母堂様は、着物をとても愛用されていて、その織物の美しさに心惹かれて絵を描くようになった。その絵を見初めたのが美果様のお父様だった。絵付師と織物工場の社長、その縁で二人は一緒になり、ご両親で織物工場を営むようになった。海外でもきっとこんなものを求めているだろうと、海外での商売を始める為にご母堂様の故郷、英国へと赴いた。それまでは高橋さんがずっと付いていたのだが、代々西園寺家へ奉公する家柄であった高橋さんの生家の方針で、日本のある大學を必ず卒業せねばならず、その四年間はどうしても英国へついて行く事は出来なかった。そこで、仕事が軌道に乗り、忙しいご両親は美果様に家庭教師をあてがった。
「彼が家庭教師になって一年程で、私の両親は仕事の関係で利用した列車の事故に巻き込まれ、亡くなりました。」
ほんの少し陰りのある表情で美果様は口にした。以前、ご母堂様の話を少しされた時があったけれど、その時は感情を露わにする事は無かった。今は違う。少しずつだが俺の前で感情を出してくれるようになった事が何よりも嬉しい。それがどんな感情だったとしても。高橋さんも少し後ろに下がって、黙ったまま美果様の告白を聞いていた。

 「それからでした。まだ子供だった私の生活全般の面倒を見てくれていたのが彼だったのです。」
彼は英国の大學教授で、とても優秀な家庭教師となり、美果様は語学に困る事無く、あちらでの生活が送れるようになっていた。
 しかし、問題はそこでは無かった。彼との生活は美果様に多大な影響を及ぼしてしまったのだ。自由奔放と言えばまだ聞こえがいいが、色々と無頓着な性分で、それは人付き合いに顕著に表れていた。見目が良ければ、老若男女問わずに手を出しては、関係を結んでいたのだという。教え子である美果様も例に漏れず、巻き込まれるようにして身体の関係を持たされてしまった。それまでは両親の愛情を受けて育ったとはいえ、まだ肉親以外の人間に対する愛情の何たるかも分からぬままに。その行為が特別な愛情の元に生まれるとも知らず、いつしか心を通わせる事無く身体を重ねる事に何の不思議も思う事も無くなっていった。誘われるがまま、何人もの人間と身体の関係を結んだのだという。全てはあの男の手によってもたらされたものであった。
「人との接し方を間違えて覚えてしまったのです。物事の分別も付かず、善悪の判断も出来ず、私はそういう人間になってしまったのです。」
「美果様…それは私が至らなかったばかりに、そのような……それに、美果様はまだ小さくていらした…。」
抑えきれないとでもいうように、高橋さんが初めて口を挟んだ。美果様はそれを制する。俺はと言えば、あまりに世界の違い過ぎる過去の出来事に呆然と聞き入るしか術が無かった。
「いや、高橋のせいでは無いよ。それに幼かった事は言い訳には出来ない。」
きっぱりとした口調で毅然と自分の過ちと向き合う美果様の姿は、いつもにも増して気高く、強く見えた。そして、続ける。
「その閉ざされた世界から引き戻してくれたのが高橋でした。再会した当時の私は、人と接する事の意味を見失い、心を閉ざしていました。その私の異変にすぐに気付き、彼を解雇し、私を守ってくれたのです。高橋には本当に苦労を掛けました。」
視線を後方に仕える高橋さんへと移し、頭を下げた。
「もったいのう御座います。私は美果様にお仕え出来て光栄に御座います。」
高橋さんは深々と頭を垂れる。決して大げさではなく、心のこもった言葉と姿勢だった。


「そして、愛の意味を思い出させてくれたのが、蒼太。お前なのですよ。」
今までとは打って変わった柔らかな調子で急に自分の名前を出され、美果様の過去から急に今へと引き戻され、我に返る。
「そんなっっ……。」
言われた言葉に驚き焦り、思わず立ち上がった、が足を踏み出せずにへなへなと床へ座り込んでしまった。緊張し通しだったのだ。元家庭教師の男とのやり取り、そして美果様から聞かされた壮絶な半生。緊張の糸が解けて、膝が笑ってしまっている。
 そんな情けない様子の俺を見て、美果様はにこりと微笑んで、優雅に立ち上がったかと思うと、俺の身体はふわりと抱き締められ、宙に浮いていた。
「蒼太を休ませます。私も少し、疲れました。」
軽々と俺を横抱きに抱えて、高橋さんへとそう告げた。俺は呆然とその状況を受け入れるしかなかった。